第8話『山口県萩市』
翌日、私は荷物を抱え新横浜まで行き新幹線に乗った。ここから新山口駅まで約四時間の旅である。指定の座席に座りバッグから本を取り出した。
昨日、本屋で見つけ買ってきたのはマーク・トウェインのハックルベリー・フィンの冒険である。実はこの小説は子供の頃から何度か読んでいる。しかし、この作品の原文はハックの口語調で書かれており、訳が違うものが幾つも出版されている。訳者や時代背景などによって受ける印象が結構違う作品になっている。
今日、買ってきたのは赤毛のアンの訳も手掛けた村岡花子氏のものである。読みやすく丁寧な文章。瑞々しい自然描写。少しひねくれた思考。とアメリカ文学の代表作らしい作品に仕上がっている。
ちなみに、このハックルベリー・フィンの冒険と言うお話は、あの有名なトムソーヤの冒険の後日譚から始まるストーリーである。偶然、盗賊のお宝を発見したハックは、黒人奴隷のジムと、お金を持っていると噂を聞きつけて、突如現れた大酒飲みのハックの父親パップの下を逃れ、自由と安住を求めて冒険する物語である。奴隷制度のまだ残るアメリカ。その当時の生活や風習や思想が色濃く出た冒険譚だ。
ラストの落ちも含め内容的には結構えげつない話なのだが、ハックの性格の明るさに救われている。
私はこの本を読みながら子供の頃のソラちゃんの事を考えた。
彼女との思い出はどれも本当に穏やかで優しいものだった……。しかし、どうしてもうまく思い出す事が出来ない。二十年以上前のセピア色に霞む記憶のままである。
むしろ、その直後、引っ越した先の横浜で大変に苦労した記憶の方がはっきりしている。横浜の小学校は自由な校風の学校で服装も自由。通う学生も個性の強い人たちばかりだったのだ。私はその校風になじめずあっという間に卒業し中学に上がってしまった。しかし、それは中学に上がっても同じだった。一つ違ったのはその学校に美術部があったことだろう。
その頃から本格的に絵に取り組み始めた私は、必死になって頑張り公民館などで行われる地方のコンテストで賞を取りまくった。そちらの方面で私は自分の居場所を作る事が出来たのだ。そして、高校に上がるころには全国レベルのコンテストに入選を果たすまでになっていた。
しかし、幸せな記憶より苦労した時の記憶ばかり印象に残っているのは何とも皮肉なものだ……。
新幹線は昼前に新大阪を通過した。車内販売で弁当を買おうと思ったのだが売り切れていたので、ハッピーターンとお茶で我慢した。昼食は山口に着いてからで良いだろう……。
そこからは本を読みながら
ここからは高速バスに乗り換え萩へと向かう。でも、その前に昼食を……。改札を通り駅を出た。
その時、目の前を子犬二匹を抱え大型犬を従えた女性が歩いていた。
――そう言えばソラちゃんは動物が好きだったな。彼女はいつかはペットショップを開くのが夢だと言っていた。彼女は公園の野良猫や散歩に来る犬とよく遊んでいた。一緒にペットショップを巡ったこともあった。彼女は無事お店を開くことは出来たのだろうか? そう思い出しながら私はどこか昼食の取れるお店を探した。
「せっかく山口まで来たのだ……。どうせなら
しかし、一向にお店は見つからない。どうやらこの周辺は居酒屋が多い様だ。周囲を歩き、派手な看板を掲げた漁師風のお店を見つけたので入る事にした。
残念ながら河豚はメニューに載っていない。浜焼きのセットがあったのでそれを注文した。運ばれてきた魚介類をコンロに乗せて自分で焼く。少し手間だが味は普通においしかった。
遅い昼食を済ませた私はバス停へと向かった。そしてそのまま出発待ちのバスへと乗り込んだ。萩市まではここから約一時間。日本海へと抜けた場所にある。
山口県萩市は古くは長州藩の本拠地である萩城のあった観光地である。幕末には吉田松陰が松下村塾を開き、桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文などを輩出した土地としても有名である。
バスは萩市役所のすぐ前、明倫学舎の敷地にある明倫センターへと着いた。古く立派な木造校舎が建っている。現在この校舎は観光施設として使われている。
しかし、今日の私は観光に来たわけではない。すぐ近くのタクシー乗り場を見つけ、そのままタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで」老齢の気の良さげな運転手が聞いてきた。
「この住所まで行ってください」と言いながら紙に書き写した住所を見せた。
「はい」
運転手はナビに住所を打ち込み走り出した。
「お客さん観光?」
「いえ、知人に会いに来ました」
「その住所、旧家だね」
「旧家?」
「ああ、古いお武家さんの家が多く残ってる地域だよ」
「そうですか……」
これから向かう村田家はソラちゃんの母方の兄が継いだ家だと聞かされた。名のある家と言う事は恐らく婿養子として迎えられ家を継いだのだろう。
「そら、あれだよ」そう言いながら運転手は顎の先で道を示した。
道路の先に白壁に囲まれた、大きな屋敷の屋根が見えてきた。
門の前に横付けしてもらいタクシーを降りた。私は門に設置されているインターフォンを押した。
「はい、どなたですか」若い女性の声が聞こえてきた。
「あの私、東雲春人と申します」
「少々お待ちください」
門の脇の通用口が開かれた。
「どうぞ」
そう声が聞こえた。私は通用口をくぐり中へと入った。中には眼鏡をかけたふくよかな三十代と思しき女性が割烹着を着て立っていた。女性が私に深くお辞儀した。いかにも使用人と言った立ち振る舞いだ。
「どうぞこちらへ」
私は女性に連れられ屋敷の玄関へと向かった。庭には大きな蔵が建っている。屋敷は白壁にガラスの窓が取り付けられている。全体的に質素であるが太い柱の使われたしっかりとした造りの印象だ。
そして、玄関には茶色の留袖を着た小柄な初老の女性が座っていた。
「あなたがこちらにお越しになる事は、向日葵園の向井さんから電話で伺っております。私がこの屋敷の主の妻の村田清美です」
声を張ったわけでもないのによく通る声だった。
向日葵園では守秘義務のおかげで電話番号を教えてもらう事は出来なかった。なので恐らく、向井が気を聞かせて事前に連絡を入れておいてくれたのだ。
「あの、こちらから私の下へ小包が届けられたのですが」
「はい、あれは私が送ったものです」
「それで、澤田星空は今どこへ」
「澤田星空は……先日、亡くなりました」
そう告げられた。
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