第5話『オンザロック』


 私の記憶にあるソラちゃんは、快活でいつもリーダーシップを発揮している少女だった。そんな彼女が養護施設に預けられていたと言う事実は少なからず私に衝撃を与えた。


 駅の近くの蕎麦屋でコロッケ蕎麦を食べ昼食を終えた私は、一旦、横浜の画材屋へ寄って絵の具を買い足して、鎌倉のアトリエに帰る事にした。


 東横線に乗り横浜駅へと向かう。

 横浜駅を出て国道沿いを歩き画材屋へと訪れた。そして、昨日使いまくって足りなくなったブルーブラックとピーチブラックの絵の具をしこたま買い込んだ。同時にシッカチーフとテレピンも買い足しておく。そう言えば平筆も手入れしなかったので駄目にしてしまった。おっと、馬毛の軟毛筆も買っておかなくてはいけない。


 次に鎌倉まで電車で移動し、駅前のリカーショップでウイスキーを購入した。銘柄は店長おすすめのバーボンウイスキーのベンチマークNo8である。軽い飲み口で華やかな香りが特徴らしい。普段の私はお酒を嗜まないが、今日は色々とありすぎてどうしても飲みたくなったのだ。ついでに近くのスーパーで夕食の弁当とおつまみも購入した。


 駅から自転車に乗り、アトリエを構えるマンションへ到着した時には、すでに四時を回っていた。

 そのまま荷物を放り出し、グラスを持って冷凍庫へ向かった。氷を目いっぱいに詰め込んでウイスキーを注ぐ。オンザロックである。バニラの甘い香りが漂ってくる。琥珀色の液体が氷の反射でキラキラと輝いている。


 私は丸テーブルとリクライニングチェアを窓辺へと移動させた。窓からは遠くに穏やかな様相の相模湾が見渡せる。その景色を見ながら私は椅子へと深く腰掛けグラスを傾けた。すっきりとした癖のない味わいの酒精が、華やかな甘い香りを立てながら胃の中へと落ちていく。たまには、こんな時間も悪くない……。


 私はグラスを傾けながら一つの事を思い出そうとした。


 本当にソラちゃんは自分の家の事を秘密にしていたのだろうか?


 よく考えると彼女は会話の中で兄や妹だけでなく、もっと多くの人の話をしていた。当時の僕はその話を学校の話だろうと解釈していた。イチニイやタケニイ、そして、妹として紹介された春香。春香だけは私と同じ春の字が入っていたために今でもはっきりと覚えている。しかし、それ以外にももっと多くの兄弟の話をしていた気がする……。何か妙だ、記憶が混乱している。

 彼女が自分から家の話をしなかったのは間違いないだろう。しかし、もし私がその事を真剣に聞きさえすれば彼女はきっと答えたに違いないのだ。彼女はそういう性格だった。では、どうして私はそれをしなかったのだろう……。


 むしろ家の話をしたがらなかったのは、私の方だったのかもしれない。彼女はそれに合わせて話をしようとしなかったのではなかろうか。

 だとすると、私は彼女が家のことを聞かれたくないと思ってると言い訳して、家のことに触れられたくないと言う態度を取っていた事になる。いや、その可能性の方が高い。彼女が良い所のお嬢さんだと勘違いしたままだったのも、自分を納得させるためだったのではなかろうか……。


 その時、不意に一つの記憶が蘇った。



 当時の僕の家は荒れていた――。


 都内でバーの雇われ店長をやっていた父と、学校で保険医をやっていた母。二人は事ある毎に喧嘩をしていたのだ。その主な原因は生活リズムのズレだった様に思う。


 普通に朝から夕方まで職場に行く母。それに対して父は夕方から深夜にかけて仕事に出かけていたのだ。そんな父は終電を逃すことも多く、家に帰ってこない日も度々あった。さらに、付き合いの名目でいつもお酒を飲んで帰ってきた。そして、女性にも随分とだらしなかったのだと思う。時折、家に見知らぬ女性からの電話があった……。

 そう言う事のあった翌日は必ず二人は喧嘩をしていた。そんな時には僕の居場所が家にはなかった。だから、二人が家に居るのが重なる夕方の時間になると外に出るようにしていたのだ。そんな家が僕は嫌いだった。


 そして、公園で勉強したり本を読んでいた。そこでソラちゃんに出会った――。



 ――もしかすると、昨日まで彼女の事を思い出そうとしなかったのは、一緒にその時の記憶を思い出すのを躊躇ったせいかもしれないな……。


 多分、私はあの青色の手袋と一緒に沢山の記憶を忘れてしまっていたのだ。


「これは、やっぱり直接会いに行くしかないかな、萩へ……」


 テーブルに置いたグラスの氷がカチャリと寂しく音を立てた。

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