第2話『小さな手袋』


 そう言えばここにアトリエを構えてからは、横浜の自宅にほとんど帰っていなかった。

 食事は近所のうどん屋かコンビニで済ませ夜はソファーで眠る生活。もう五年目になるだろうか……。服はフォーマルな背広が一着にカジュアルなジャケットが一式。後は大学時代に買い込んだ適当な服である。別にそれで問題ない。


 私はお酒を飲まない、煙草もやめた。勿論、女は……。

 大学時代はそれなりに女性とも付き合いもあったし寝ることもあった。だが大学を卒業し絵を売るようになってからは、正直言ってそんな暇はなかった。ただ必死に絵を描き続けてきたのだ。



 私は部屋へと戻り茶封筒を開けてみることにした。ペインティングナイフを差し込み封を切る。

 中からは宅配便屋の袋が出てきた。恐らく自宅に届いた私の荷物を母がこちらへ転送したのだろう。

 さらに中には単行本サイズの箱が入っている様だ。重さはかなり軽い。差出人は……。村田清美と書いてある。


 ――覚えがないな……。住所は山口県の萩市になっていた。連絡先は空欄になっている。自宅の方へ荷物が届いたと言う事は大学? それとも高校時代の知人だろうか?


 訝しみながらも封を切る。中から白い包装紙に包まれた小箱が出てきた。こちらにも送り状が付けられている。控えなどが付いたままになっているところを見るとこちらは未発送だったのだろう。住所は同じ。差出人だけが違っている。差出人……〝澤田星空〟。


 ――やはり覚えがない。


 包装紙を丁寧に開いて箱を開けてみる。箱の中には青色の小さな手袋だけが入っていた。


「あれ? これ、どこかで見覚えがある……」


 この手袋は確か……。ああ、そうだ! これは父に買ってもらった手袋だ。小学校の頃のクリスマスにスポーツ用品店で買ってもらった記憶がある。

 確かサイズが少し大きくてブカブカしていた。だが、これはどこかで忘れてそのまま無くしてしまったはずなのだ。何故、ここに……?


 澤田星空さわだほしぞら……。

 澤田には心当たりがないが、星空には何か引っかかる……。小学校の頃だったはず……。


 ――ああ! そうだ! 青空のソラちゃんだ!



 その瞬間、私の脳裏に屈託のない笑顔でほほ笑む一人の少女の顔が思い浮かんだ。


「夜に輝く星に青空の空。星空。だから私の事はソラと呼んで」


 別れてからすでに二十年以上経過した、全てがセピアに染まってしまった彼方の記憶……。


 当時の私より少し背の高い、三つ編みおさげの快活な少女。年齢は同い年か一つ上だった。いつも近所の公園で待ち合わせ一緒に遊んでいた。公園で、公民館で、図書館で、夢中になって暗くなるまで遊んでいたのだ。

 ひと頃は毎日一緒になって遊んでいたと言うのに、どうして今まで彼女の事を忘れていたのだろう……。

 そう言えば彼女と遊んでいたのは横浜へと引っ越す前。まだ川崎に住んでいたころだったな。


 心の内に懐かしさがこみあげて来る。郷愁と呼ぶにはまだ早い、ジレジレと疼く感情を伴って思い出される。この感じ少し照れ臭くて心地よい……。

 久しぶりに行ってみるのも良いかもしれないな。そう、思いながら私は買ってきた弁当を電子レンジへ放り込んだ。


 それにしても何故梱包が二重になっていたのだろう? そして、手紙らしきも見当たらない。さらにはどうして今になって……。疑問が次々と湧いて来る。しかし、明日街を少しぶらつけば何か思い出すかもしれない。そう思いながら弁当をレンジから取り出し夕食を始めた。



 翌朝、私は電車を乗り継ぎ川崎市へとやってきた。

 神奈川県川崎市中原区――。


 電車から吐き出される大量の人間。ああ、これは私の嫌いな感情だ……。何かに急かされる様な、とりあえず何かをしなくてはいけない様なこの感じ。だから人混みは嫌いなのだ。まるで前に進むことを強制されている気分になる。流れに逆らう事は許されない。私は改札を抜けて早々に建物の外へ出た。


 駅の周辺も相変わらずである。いや、建物は随分と新しいものに建て替わっている。だが、街の持つ雰囲気は変わっていない。シャッターの閉まった商店街。雑多なビルの立ち並ぶ飲み屋街。子供の頃からこの街はどこか煤けて見える。多分私はこの街が嫌いなのだ。


 国道から離れ裏路地を使って、かつて住んでいたマンションのある一角を目指した。そして、見えてきた。

 かつて私たち家族の住んでいたエレベーターも付いて無い五階建ての集合住宅は、広い駐車場と小洒落たオフィスビルへとなっていた。

 いや、流石に子供の頃から来たことが無い訳ではないので知っていた。確か十二年ほど前に老朽化で取り壊されて建て替えられたのだ。だから、別に感想は無い。元々ここにはあまり良い記憶も無い。私はそのままその場を通り過ぎ、くだんの公園へと向かった。


 道路の先に公園が見えてきた。ここはこの辺りでは一番大きな公園だ。ちょっとした球技も出来るグラウンドがあり、沢山の遊具も揃っている。大型の複合滑り台があり、ブランコ、六連ブランコ、ジャングルジム、回転ジャングルジム、鉄棒、シーソー、登り棒、そして、背に乗れるパンダと熊がいた。


「あれ?」


 複合滑り台は普通の滑り台へ替わっていた。そして、ここにあったはずの遊具のほとんどが無くなっていた。残っているのはブランコと鉄棒と、あとパンダと熊だ。


 最近危険な遊具は撤去されているとは聞いてはいたが、流石にこれはやりすぎだろう……。

 子供の遊べる遊具がほとんど残ってはいない。

 代わりにゲートボールと張り紙された用具倉庫が建っていた。

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