白い街・青い手袋
永遠こころ
第1話『見えない線』
私は、〝人混みが嫌いだ。ごみごみとした街並みが嫌いだ。〟
だから、古都の雰囲気を漂わす鎌倉の町はずれの高台に建つマンションへとアトリエを構えた。
周囲を緑に囲まれ、遠くに穏やかな海を望める。眼下の街並みも古い建物が多く、都会の喧騒とは無縁を感じさせる。ここには穏やかな時間が流れている。
私の名前は
木炭筆を手に真っ白なキャンバスへと向かう。
目の前に真っ白な空白が巨大な壁の様に立ちはだかっている。そこには何も浮かんでは来ない。
以前はそこに確かに描くべき線が見えていた。何を描けばよいのか、どう描けばうまく描けるのか、それが描く前に見えていた。しかし、今の私にはもうそれが見えないのだ……。
四月の事である。
私はとあるコンテストで落選した。
いや、本当の事を言えば特選には選ばれた。だがそれでは駄目なのだ。大賞とまでは言わないまでも何かの賞は必ず取れるはずだった。
日本神話をモチーフとした大胆な構図。何度も下絵を描いて細部まで煮詰めた描写。この作品は一年以上の歳月を費やし、荘厳で見る者を圧倒するほどの美しさを湛えた自信作だったのだ。
――そんな作品が特選止まりだと……。
何も他の受賞作品が劣っているとは思わない。相変わらず受賞者は常連組に独占されている。確かな実力と確固たる自信に満ち溢れた作品たちである。だが、しかし、それでも私の作品は……。
今の私の中には黒々と光を放つ虚空が広がっている。
私は持っていた木炭筆を投げ捨てて平筆を固く握りしめた。
真っ白なキャンバスにその筆を突き立てる!
〝黒い! 黒い! 黒い!〟
荒々しく引かれた線が縦横無尽に走り、キャンバスを次第に黒く染め上げていく!
〝黒く! 黒く! 黒く! もっと黒く!〟
心の内がそう叫んでいる。キャンパスに黒の絵の具を叩きつける。
〝黒! 黒! 黒! 黒! 黒! ……〟
汚れていくキャンバスに自然と笑みがこぼれる。その笑みはどす黒く
余すところの無い漆黒で私の一年の集大成 〝虚無〟 が完成した瞬間だった……。
「笑える……」
私はそのまま床へとへたり込んだ。目の前の真っ黒になったキャンバスを見つめ続けた。
気が付くとテーブルの上に置いてあった携帯電話が
「よお、元気してるか
「久しぶりです長谷川さん」
電話の相手はギャラリストの
「どうだ、また描けるようになったか」
「いえ、まだです」
「もう一か月も経つんだぞ、そろそろ次回作を描き上げろ」
「はあ……」
「だから、あまり気にするなって、お前の作品は元々コンテスト向きじゃないんだから」
「あの、それってどういう意味ですか」
「前にも言ったろ。お前の作品は人を突き放すんだ。威圧し、恐れさせ、孤独にさせる。万人受けするものではないんだよ」
「はあ……」
知っている。いや、気が付いてはいた。だからこそ人に誇れる何かが欲しかったのだ。そのために長い時間をかけて仕上げた作品だったのだ。
「まあいい。次回作、仕上げたなら連絡よこせ。お前の作品なら俺が売ってやる。もっとも号単価は今まで通りだけどな」
「はあ……」
そう言って電話は切れた。
いや、先輩には感謝はしている。今まで何とかやってこれたのは彼のおかげだ。人からはあまり評価されない私の絵を売り続けてくれたのだ。今では一定の顧客も付きそれなりに生活もできるようになった。そして、アート雑誌の片隅にも名前が載るところまでこれたのだ。だが、それだけだ……。ただ、それだけだ……。売るための絵を描く日々。ただ美しく。ただ繊細に。私にはそれしかできない。
有体に言えば私はあの絵に全てを賭けていたのだ。それほどまでにのめり込んで全てを捧げたと言い切れる作品だった。それなのに、全てを否定された気がした。
私は絵が描けなくなった。
自転車に乗り湘南の海岸を走る。これはただの気晴らしだ。どうせアトリエに居ても絵は描けない。私は愛用のクロスバイクを駐輪場から引っ張り出して漕ぎだした。
久しぶりに走る人気の少ない五月の平日。海は穏やかな午後の日差しで煌めいている。吹き付ける風もずいぶんと暖かくなってきたようだ。
私はコンビニの前に自転車を止めた。レジに立ち三年ぶりに煙草を買った。防波堤の上に立ち煙草に火をつけた。
「げほっ……」
やはり三年ぶりの煙草は美味しくなかった。よくこんなものを毎日吸っていたものだ。防波堤へと火を擦り付けて吸殻を投げ捨てた。もしかすると我武者羅に頑張っていたあの頃を思い出すかもしれない、そう思ったのだが……。
「ちきしょう……。だったら私にどうしろと言うんだよ……」
残った煙草をポケットへと仕舞い私は再び自転車へと跨った。
近所のコンビニで夕食の弁当を買い込みマンションへと引き返した。駐輪場へと自転車を置き郵便受けを確認する。
「ああ、
背後を振り返るとポストコーナーの隅に設置された小窓から管理人のお爺さんが覗いていた。
「何ですか」
「小包預かってるよ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
私は差し出された大きな茶封筒を受け取った。
その封筒は自宅の母が送り付けたものだった。
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