第2話.王子の生活
「あ、殿下。お部屋に戻られますか?」
「え、あ、レイ。でも食事は……?」
トイレから出てきたリガルを出迎えてくれた少女に対して、リガルは反射的に彼女の名前を呼ぶ。
反射的に、というのはそのままの意味である。
本来リガルは少女の名前を知らない。
しかし、姿を見た瞬間、ポロリと口から出たのだ。
確かに、普段生活していても、親しい人間の名前を呼ぶときに、その人の名前が何だったかなど、いちいち頭で考えてはいない。
姿を見た瞬間すぐに名前が口に出る。
想也にとっては親しくなくても、リガルにとっては親しい人間である彼女――レイの名前がすぐに出てくるのは当たり前だろう。
一瞬自分の事ながら驚いたリガルだったが、すぐにそれに気が付き冷静さを取り戻す。
「もう準備は出来ていますので、大丈夫ですよ」
「じゃあ食事をお願い……じゃない。頼む」
「……? はい」
リガルが言い直したことに、怪訝な表情を浮かべたが、すぐに頷く。
(ふぅ、王族らしい振る舞いをしなくちゃならないのを忘れてたぜ。一般市民の俺が自然に王族らしい振る舞いを出来るようになるのは、意外と大変かもしれないな)
そんなことを考えながら、レイの後を歩くリガル。
しかし、しばらく歩いて、リガルはふとあることに気が付く。
「ねぇ、なんで部屋に戻ってるの?」
そう、今リガルとレイが歩いているのは、
食事を頼むと言ったはずだが……、とリガルは疑問に思う。
「え、お食事を取られるのでは?」
「え、いや、そうだけど……」
なのに何故部屋に? とリガルは続けようとしたが、その時、自らの脳に残る記憶がその答えを教えてくれたため、口を噤む。
(あー、なるほど。根本的な勘違いか)
リガルは、食事は当然食事用の部屋かなんかで取るものだと思い込んでいた。
しかし、今の立場は王族だ。
食事は使用人が自室に持ってきてくれる。
「どうかしたんですか?」
ようやくレイの言っている意味が理解できたところで、レイが普段と様子が違うリガルを心配そうにのぞき込む。
「あー、いや、なんでもないよ。まだ寝ぼけてるみたいだ」
「そうですか。ならいいですけど」
我ながら酷い言い訳だな、とリガルは心の中で苦笑いしたが、とにかく誤魔化せたのならばそれでいい。
部屋に辿り着くと、すでに料理をワゴンに乗せて部屋の前にまで持ってきている侍女の姿が。
(うわ、マジかー。ワゴンに乗せて持ってくるって……。しかもめちゃくちゃ豪華な食事に、高級そうな食器……。もしも割っちゃったりでもしたらどうしよう……)
リガルは王族なのだから、高級な食器の1個や2個を割ったところで何も問題ない。
だというのに、こんなことを心配してしまうあたり、まだ全然自分が王族であるという自覚が身についていないようだ。
無理もないことではあるが。
「後は私がやっておくので大丈夫です」
「あ、あぁ、危ないですよ!」
リガルが自分がこれから食すことになる朝食を見て呆気に取られていると、レイがワゴンを持ってきた侍女から受け取る。
侍女はそれを見て止めようとするが、レイは頑として聞き入れない。
そのワゴンは、レイの身長と同じ……とまでは言わないものの、それに近い高さがある。
だというのに、わざわざ自分でリガルの私室に運び込んだ。
自分も立派に働けるということを証明したいのだろうか。
そういうお年頃なのかもしれない。
レイの姿を見て、リガルはそう微笑ましく思った。
この時リガルは、いざとなったら、自分が助けよう――などと考えていたが、自分の身体もレイと同じくらいの小ささになっていることをすっかり忘れている。
特に何も問題が起こらなかったから良かったが。
しかし、椅子に座って、さぁ食べよう、となったところで、リガルはふと思った。
(てかこれ……朝食にしては多すぎね? いや、夜に食べるとしても多すぎる気がするけど)
「どうぞ」
食卓にすべての皿を並べ終えて、レイが一歩下がる。
「あれ? そういえばレイの朝食は?」
「私なら後で適当に済ませます」
「そういうことならさ、一緒に食わない? ほら、俺1人じゃ量が多いしさ、一人で食うのはなんか楽しくないしさ」
これ幸いと、そんな提案をするリガル。
だが……。
「そ、そ、そんな……! 流石にそれは恐れ多いですよ……!」
レイはかなり動揺した様子でリガルの提案を断る。
実は、現国王であるリガルの父――アドレイア・ロドグリスが、レイには「リガルには同年代の友達がいないから、礼儀などは特に気にせず仲良くしてほしい」と言ってある。
レイは、一応使用人という立場でリガルに仕えているが、アドレイアとしては、使用人としてリガルの世話をさせるというよりも、友達を作ることを主目的としていた。
そのため、一緒に食事を取ることくらいは全然問題ない。
しかし、レイはアドレイアの言葉を素直に受け取らなかった。
本来、貴族の言う「礼儀など気にせず」なんて言葉など、本気で受け取るものではない。
もちろん、多少は言葉遣いや態度を崩しても構わないだろう。
だが、それにも限度がある。
そしてその限度のボーダーは、かなり厳しめに設定されている。
例えばの話になるが、国王が国内の貴族の誰かを会食に招いたとする。
そこで、国王が「この場は無礼講だ」とでも言う。
それを受け、招かれた貴族がその言葉を鵜呑みにし、国王にタメ口でも聞く。
そんなことがあれば、たちまち重い罰が課せられることになるだろう。
このような、貴族社会の常識や、王族との接し方なんかを、使用人として王家に代々仕えている家の出身であるレイは、昔からよく叩きこまれていた。
そのため、レイはリガルに対して、あくまで使用人としての立場を守る。
だが、リガルも諦めなかった。
「まぁまぁ。そういう堅苦しいことは気にしないでよ? 俺とレイの仲だろ?」
おかしなことは言っていない。
「い、いやでも……」
説得を試みるリガルに対して、レイは困った様子を見せるが、リガルは一向に諦めようとしない。
結局レイが折れることになり……。
「で、では……」
レイは恐る恐る……、といった感じでリガルの対面の席に着く。
「じゃあ、頂きます……と」
リガルは呟くように言って、フォークを左手に、ナイフを右手に取る。
まず、近くに置かれていたローストビーフのような肉料理が乗った皿を近くに持ってきた。
そして、一枚のローストビーフを折りたたんでからフォークで刺して口に入れる。
その動作は
別にリガルは日本にいたころから、ナイフやフォークを日常的に使用していたわけではない。
だが、幼少期から親によって、将来恥をかかないようにと、パンケーキやホットケーキといったリガルの好物の甘い物で釣って、覚えさせられたことがあった。
そのため、日本人だと使い慣れていない人の方が多いであろうナイフとフォークを、ほぼ完璧に使いこなすことが出来るのだ。
(おお! 美味い)
口に放り込んだ肉を噛みしめて、リガルはそう思った。
いくら王族が口にする料理と言えども、現代日本の料理と比べると味が落ちるのではないかと危惧していたリガル。
しかし、その予想は外れた。
(調味料が現代日本と比べると、明らかに劣っていることは予想通りだった。しかし、それを補って余りある素材の良さと調理技術の高さ!)
リガルが食した肉は、ローストビーフっぽい見た目をしているのに、ソースが掛かっていない。
そのため、確かに味は薄い。
しかし、肉本体は信じられないほどに柔らかく、しっとりとしていた。
(なんて極上の舌触りだ……)
食事というのは、人によって重要性が変わるものの、不味いよりは美味い方がいいに決まっている。
リガルはそこまで食事にうるさい方ではなかったが、あまり口に合わなかったらどうしようかと心配していた。
その不安が解消されて、一安心といったところだろう。
(でも、味はいいけど肉ばっかだな。さっき食ったローストビーフ以外にも、ハムやらソーセージやらもあるし、スープにまで何か肉らしきものが入っている……)
リガルは、肉は好物ではあったが、朝から大量の肉を
朝に食う肉は、ソーセージだったり、目玉焼きにくっついているハムやベーコンくらいで十分。
そう思っていた。
しかし、出された料理が想像をはるかに超える味だったため、リガルの手はなかなか止まらなかった。
しばらく、異世界の高級料理を食べ続け、腹が7割ほど満たされたところで、リガルは唐突にある疑問を抱いた。
「ねぇ、レイ。そういやさ、今日の俺の予定とかってわかる?」
ナイフとフォークを動かしていた手をいったん止めて、レイに話しかけるリガル。
「え、えーっと、今日は普通に8時から11時まで算数の授業があって、12時から15時までが魔術実技の授業だったと思いますよ?」
「え、授業!?」
驚いたように声を上げる。
まさか、異世界でまで勉強をしなければならないとは思わなかったのだ。
だが、冷静に考えてみれば、王族がしっかりとした教育を受けるのは至極当たり前のことだ。
それを理解したリガルのテンションは一気に下がる。
(いやマジかー。異世界に来て勉強かー)
「ど、どうかしましたか?」
しかし、レイとしては今のリガルの内心など理解できるはずもない。
リガルの様子を不審に思うのも当然だ。
「あ、いや、なんでもないよ」
(まぁ、仕方ないか。午前中の授業は嫌だけど、午後は魔術の授業らしい。こっちはかなり異世界らしいじゃないか。気持ちを切り替えよう!)
現実はそう甘くないということを、異世界生活早々に教えられたリガルであったが、嫌な気持ちを無理矢理に振り払う。
そして、残っていたスープを一気に飲み干して、立ち上がったのだった。
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