第5話


「あれ、鼻血くんじゃん」

「…!」


 購買でパンを買いに出ようと言ってきた友達の付き添いをしに来ると、ばったりと佐島と出会ってしまった。思いがけない偶然に驚いているのは俺だけではなく、佐島もらしいが、どちらかと言えば友達が言った「鼻血くん」と言う言葉にぎくりとしたらしい。俺は友達を小突いた。


「馬鹿。変な事言うな」

「は?だって、こいつそうじゃん。お前の顔見て鼻血出してさァ」

「声でかいって…!」


 佐島は俯いて、パッと踵を返し、その場を去って行った。あ、と言う俺を変な目で見てきた友達が俺をじっと睨み、パンを買いながらふと言った。


「あのさー須々木。お前何考えてっか知らねえけど。変な事言ったらお前もあいつみてぇになるんだぜ」

「どういう、…」


 友達の目は、いつもみたいなふざけた表情をしていなかった。冷たく、凪いだ色をしていて、小学からの付き合いだが、初めてそんな目を向けられた。


「そのまんまの意味だよ。島に残りたかったら余計な事すんなよ」


 てめぇも、てめぇの家族の為にもな、と友達は俺の肩をぽん、と叩いて教室へ足を向ける。島から、出て行かなければならない。俺はさっと血の気が引いていくのを感じた。

 俺がやっている事は、いけない事なのだろうか。



「あげる」


 何となく屋上にいる気がしたので向かってみると、案の定佐島は屋上のダクトの上に座り、ぼんやりと空を見上げていた。佐島の膝にいちごジャムパンを乗せると、佐島は目を丸くして俺に視線を移していた。


「何で」

「何で、って…俺達のせいで買えなかっただろ」


 佐島は、違う、と首を横に振る。


「あれだけ言われてたじゃあないですか。脅されてもいた。ボクみたいになるかもしれないって、言われてたのに…」

「ああ、その事か」


 座って良い?と一応断りを入れて、よいしょ、と佐島の隣に座る。気温が心地良い気候だ。俺は空を見上げて、雲を指さした。


「あれさ、いつまであの形でいられると思う?」

「…あの雲ですか?」

「そう。いつまであの形でいられるか」


 佐島は、考えた事ないです、とパンを両手で持ち、視線をそちらへすぐ移した。


「俺もさ、分かんないんだよね」

「…答えのない問いをしないで下さい」

「ごめん。でも、いつまでもあの形じゃあないって事は分かるんだ」

「そんな事、ボクにだって分かります」


 だよなー、と俺はパンの袋を開けて、ひとくち齧った。お前も食べたら?と促すと、ようやっとパンの袋を開けて、佐島もひとくち含む。リス食いなんだな、と脳の片隅で思った。


「俺達だって、いつまでも同じ形じゃあないんだよな」


 雲が流れていく。そうして次第に、雲の形が徐々に変わっていく。丸みを帯びていた大きな雲が、散れ散れになっていった。


「いつまでも、一緒じゃあないんだよな。だからって、無理に変えようとも思わない。あいつらと一緒にいるのだって、何らかの縁だし。だから、あいつら、酷い事言うけどさ、嫌いになれないし。あんな脅され方したって、あいつらが俺の事嫌いって言うまでは、何も出来ないっていうか。何もしたくないっていうかさ。うーん…難しいけど」

「…それ、悪口言われてるボクに言います?」

「そうだな。でも、こうしてお前と話してるのも、何かの縁なんだよ」

「ちょっと無理矢理な気もしますけど」


 しつこいっていうか、馬鹿だからなー俺、と笑うと、佐島は空になったパンの袋を綺麗に畳んで、立ち上がり背伸びをした。


「でも、何だか不思議です」

「何が?」

「貴方みたいな人、初めて会ったから」


 個性的、と言われて褒められているんだろうか。俺は、いやあ、と頭を掻くと、褒めてません、ときっぱり切り捨てられてしまった。


「探しちゃうんですよ、無意識に。先輩、今日来てるかなって。ボクの日常に割り込んできて、本当にしつこい人です」

「俺を?探す?」


 マジで?と聞き返すと、佐島は顔を真っ赤にした。咄嗟に手で顔を覆うと、次第に指の隙間から鼻血が溢れ出す。うわあ、と驚いた俺は慌ててハンカチを佐島の顔に押し当てた。


「だ、大丈夫か」

「だ、だ、だいじょうぶ、っていうか、ハンカチ…っ」

「ハンカチ?母ちゃんが持って行けって毎日うるさいから持ってるんだよ」

「ちがう、そういう事じゃなくて…」


 いいから、と俺は佐島にハンカチを渡す。佐島は、ぺこり、と律義に頭を下げて、ハンカチを鼻に押し当てながら、視線を泳がせた。


「…汚しちゃって、…」

「あー気にすんな、気にすんな。たまに俺も血まみれで帰るし」

「血まみれ…⁉ 何で…?」

「喧嘩。この髪色だからさ、目付けられやすくて。それでボッコボコ」


 けらけら笑う俺を、不思議そうに見上げる佐島の顔は赤らんでいる。やはり、鼻血が出ると血色が良くなるのだろうか。


「…よく、無事でいられますね」

「空手やってたから。逆にやっつけるんだぜ」


 ヒーローのパンチみたいな構えをすると、佐島は目を細めた。その瞬間が陽に照らされて、きらめいて見えた。俺はまたどきり、として、佐島を見つめてしまう。多分、相当なアホ面だったと、思う。


「先輩って馬鹿強いんですね」

「…お?お、おお…そうだな…」


 佐島は時計を見ると、もうすぐだ、と少し焦りの色を見せる。ハンカチを離した鼻に少し血がついていたから、咄嗟に指で拭った。


「…え」

「…あ」


 しまった、と思ったら、佐島は咄嗟に顔を背ける。機嫌を損ねてしまったのだろうか、と慌てたが、耳から顔まで真っ赤になっていた為、また具合が悪くなったのだろうか、と心配になる。しかし差し伸べようとする俺の手を、佐島は拒んだ。


「ハンカチ、ありがとうございます。きれいにして返しますから」

「え、あ、ちょっ、」


 佐島は踵を返し、屋上の扉に手を掛ける。声が飛び出したのは、咄嗟の事だった。


「明日も!ここで、待ってるから!」


 風に乗って、佐島が振り返る。やっぱり、陽に照らされても真っ黒なその髪は、いつ見てもどきりとする。佐島は目を丸くして、ふんわりと笑みを表情に乗せた。

 屋上の扉が閉ざされる。あれ程心地良いと思っていた気温が、今度はシャツの下の肌を蒸すような温度まで上がっていた。いや、これは、俺の体温か。

 呆然と立ち尽くす俺に、先生の怒号など聞こえやしない。俺は、初めて見たあいつの笑みで、胸がいっぱいになっていた。


「…笑えば、すっげぇ良いじゃん」



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