第3話
夜の仮面が聖都に帰還した。
この報せは瞬く間に国中に広がった。
十二人の使徒の一人である。第十二位貴族・ネイオミギア公が弑虐され、私兵も皆殺しにされたという。
その事件があった翌日。リディエータは仕事を抜け出して聖都の南端、貧民街にほど近い道を一人で歩いていた。
目指しているのは『ふたりの秘密の場所』。彼といつも遊んでいた廃墟である。
リディエータは懐かしさに目を細めながら、ゆっくりと歩いた。
そして、やはり――彼はいた。
夜色の髪に、冷たく理知的な黒瞳。鋭利な雰囲気の容貌だが、口もとの笑みが彼をやわらかく見せている。
やはり背も高くなっている。女性としては長身のリディエータより頭ひとつ分高い。昔は自分が見おろしていたはずなのに、いまは見あげなくてはならない。すでに記憶の中にある十三歳の少年ではないのだ。リディエータの二つ下だから十八歳になっているはずだ。
「やあ、リディ」
声は低くなっていたが、自分の名前を呼ぶときの甘い響きは、昔のままだった。
「久しぶりだね。元気だった?」
懐かしさに胸が締めつけられるようだった。
「――レイン……」
リディエータは囁くように彼の名を呼んだ。
警部であった父が訳あって、彼の母とレインを連れてきたのは、リディエータが十歳、彼が八歳のときだった。
彼の父が亡くなり、詳しい経緯はわからなかったが、縁のあったウィルスタルが、母子を引き取ったてきたのだ。リディエータの家は中流とはいえ貴族だったので、二人を面倒見るぐらいは、どうとでもなった。
ただ、レインの母は病気がちで、常に寝台にふせっていし、父を亡くしたばかりで、レイン自身も俯いていて、いつも泣いていた。
リディエータは父からレインの面倒を見てやってくれと頼まれた。
そのときは、あまり気が進まなかった。レインは暗かったし、いつも父を睨んでいるように感じた。自慢の父に敵意を抱いているかのような彼の態度には好感がもてるはずもなく、頼まれなければ口もきかなかったことだろう。
それでも、二人は仲良くなった。すぐにとはいかなかったが、時間はたっぷりとあったのだ。
いつしか、二人はともに遊ぶようになり、いつも一緒にいるのが当たり前になった。ともに学校へ行き、遊び、食事をするときも、お風呂まで一緒だったときもあった。レインは一番の親友であり、共謀者であり、家族だったのだ。
そのときのリディエータは、この少年と自分の未来はつながっているものだと、疑いもしなかった。
レインの父がなぜ亡くなったのか、どうして警部であった父がこの母子を連れてきたのか、知ろうともしなかったのだ。
だって彼はすぐ近くにいて、手を触れようと思えば届くし、レインのことはなんでも知っていると思っていた。甘いものが好きで――とくにキャンディーが大好きなことも、魚料理が嫌いなものも、イライラすると前髪をいじるように掻く癖があることも、なにもかも。
でもリディエータは肝心なところは、なにもわかっていなかったのだ。
それを知ったのは、五年前――レインの母が亡くなり、彼がいきなり姿を消した後だった。
そのとき、リディエータは半狂乱になってレインを探した。だが、見つからなかった。警察の捜索も打ち切られた頃。父が話してくれた。
――彼は、夜に招かれたのだと。
そして語ってれた。
レインが、――ジューダス家の唯一の生き残りで、父が捕まえた『夜の仮面』の息子であったことを。最後に母子のことを頼まれたことを。
それを知ったとき、リディエータは泣いた。
自分はレインのことを、なにひとつわかっていなかったと思い知らされた気がした。
――レインは、どんな気持ちで、この家ですごしていたのだろう?
仇の家に引き取られ、その娘と暮らすことを、どう思っていたのだろう?
その彼は姿を消した。
リディエータに、なにも言わずに。
そのことが、ただ哀しかった。
「いままで、なにをやっていたの……っ?」
その言葉はかすれて、ほとんど声にならなかった。
レインは聞こえなかったのか、それとも聞こえていたが、ただ答えたくなかったのか、夜色の瞳を細めて苦笑するように言った。
「そういえば、女性初、しかも最年少で、聖都第一級警部に昇進したんだってね。おめでとう。昔からお父さんのような刑事になるのが、リディの夢だったもんね」
「レイン……ッ!」
その言葉を遮るように、リディエータは彼を睨みつけた。
「いきなりいなくなってどれだけ探したと思っているのッ? どれだけわたしが心配したと思ってるのよっ!」
彼がはじめて笑みを消した。
「ごめん。でも行かなければならなかったんだ。――我が一族の掟のために、ね」
「なによ、それ……ッ」
「聞いたでしょう。おじさんから、――僕がジューダス家の末裔だってこと」
「……ええ」
砂を噛むようにして、リディエータは頷いた。
レインは遥かな過去に思いをはせるように語った。
「僕らの祖――ペイン・ジューダスはね、十三人目の使徒でありながら、神の正義が理解できない人だったんだ」
そう、彼にはどうして貴賎があるのもかわからなかった。
どうして平民や貧民は、貴族の奴隷のように扱われ、ゴミのように死んでいかなければならないのか。
前世で罪を犯したから?
だから、生れ落ちて間もない赤子が餓えて死ぬのも当然なのか? 生まれが卑しいだけで少女が辱められ塵くずのように捨てられるのも?
奴隷のように働き、ただ使い潰されていくのも?
それが我等の神のいう正義なのか?
これがっ?
こんなものがッ?
それなら、わたしは要らない! こんな正義など……わたしは要らないッ!
――わたしは悪でいい!
「こうして、彼は神に背いた。そして仮面を被り、ジューダス家は廃絶させられた。それでも彼の子孫は生き延びた。たったひとつの掟を胸に。さあ、正義によって犯された罪を、いま償わせよう。我は悪を滅する大悪なり――ってね。でもそれを実現させるためには力が必要でしょう?」
だから、その力を得るために、五年間も行方をくらませていたというのか。わたしになにも言わずに。
「そんなの必要ないわ」
リディエータはレインを睨みつけるように言った。
「なんのために、わたしたちがいると思ってるの? 弱きものを護るためにお父さんは零課をつくったのよ!」
その言葉に、レインはわらった。とても冷たい眼をして。
「確かに。それだけで人々が救われるなら、僕たちは必要なかっただろうね。だが現実はどうだい? 人は生まれながらにすべてを決められ、貴族以外はまるで奴隷のようだ。民を救うには正義だけでは足りないんだよ。悪を滅するために、より強大な悪が必要なときもある」
「そんなことない!」
「では、なぜいまだに民は救われない?」
その声は空気が痛く感じるほど冷えきっていた。
「少数の貴族だけが贅を極め、民が不当に苦しむ。神がなにを救ってくれる。神の名を語る輩こそが最も民を苦しめている……ッ」
リディエータは、それに反論しようとした。
そこに、あるひとりの少女が現れた。
まだ十歳になるかどうかで、薄汚れた格好をしていて、なにより痩せ細っていた。貧民なのだろう。見ているだけで痛々しくなるほどだ。
レインに言葉を返すことも忘れて、その少女を注視していると、彼女も無表情な顔で二人を見つめた。
そして、男であるレインの前まで歩いていくと、抑揚のない声でこう言った。
「……食べものをちょうだい……。あたしになにをしてもいいから……」
リディエータは息をのんだ。こんな小さい子供が身体を売って、その日々を生きつないでいるのだ。
レインが悲痛な光を瞳に宿して、その少女の頭をなでた。そして懐から非常食用のビスケットのはいった紙袋を渡してやる。
「ごめんね……」
それから、そっと少女から――その場からから離れる。彼女は自分になにもしないのかと問うような無機質な目をしていた。
リディエータはその光景になにも言いえなくなった。
これが現実だった。
「これらすべての人を、リディのいう正義で救えるの?」
リディエータは血が滴るほど唇を噛みしめた。
わかっている。
自分がいまやっていることですべてを救えるわけではない。不当な世界を変えられるわけでもない。それでも、リディエータは自身ができる精一杯の正義で人々を救おうとがんばっている。寝食を忘れて、がむしゃらに努力して、やっとここまできたのだ。
しかし、いくらやっても足りない。
そんなことは自分自身が一番よくわかっている。でも、だからこそ――なにかをせずにはいられないのだ。
俯いて拳を震わせているリディエータを、レインがいとおしいげに見ている。
「だから、僕がいるんだよ。正義ではできない方法で民を救うために。そのために――夜の仮面は帰ってきたんだ」
――悪をさらなる悪で叩き潰すため。そうやって民を救うために、ね、と彼は言う。
その声には力があった。何ものにも負けない信念があった。そして、リディエータには、そのことがひたすら哀しかった。
「そうやって、……最後には、あなたのお父さんのようになるっていうの……ッ?」
リディエータは身をきるように声を荒げた。
先代『夜の仮面』は悪行を重ねることで人々を救い、そして最後には捕まり、処刑されたのだ。
それに、レインはわらった。
それは、暗闇に生きることを選んだ者の夜の微笑み。
「僕の最後はもう決まっている。悪によって民を救うことができても、しょせんは悪。最後には正義によって討たれると決まっているんだよ」
「……ふざけないでっ!」
目に涙をためてリディエータはレインを睨みつけた。
そんなことはさせない。絶対にわたしが許さない。
なんとしてでも説得して、こんなことをやめさせる。そう決意して口を開こうとしたとき――
――チリン。
耳もとで聞こえたような鈴の音に一瞬だけ気をとられた。視界の端をなにかが動く。黒猫だ。
その一瞬を利用して、レインがリディエータから離れた。
「ごめん。もう行かなくっちゃ」
「ダメよ。行かせないわ!」
リディエータは彼を捕まえようと手をのばす。一度開いた距離が果てしなく遠く感じた。
「――ごめんね」
もうすぐ手が届くというところで、黒い影がレインの姿をつつんだ。
目を離したつもりもなかったのに、一瞬にして目の前から消えた。
「どこに……ッ!」
背後で物音がした。
ふり向くとそこには、黒衣に身をつつみ、銀色の仮面をつけた彼が立っていた。
「……レイン!」
彼は返事をしなかった。
そんな彼に黒猫が走りより、肩に飛び乗ったった。そして、リディエータは驚きに目を丸した。
猫が、瞬く間に赤毛の少女に姿を変えたのだ。まるで重さなど存在しないかのように、彼の肩に腰かけている。
妖艶な少女だ。まるで場末の娼婦のように肌をあらわにした黒革のボンテージ姿だった。そのせいか十代半ばに見えるのに、二十歳のリディエータよりもずっと色っぽい。
あまりのことに声を失っているリディエータを尻目に、赤毛の少女はレインの耳に口を寄せ、いくわよ、と囁いた。
その際、あの少女は挑発的な流し目をこちらにくれた。
「なァ……ッ!」
それに、やっと硬直が解けたリディエータがなにか言う前に、レインが赤毛の少女に頷いていた。
少女の背中から黒い影が爆発的な勢いをもって広がった。
突如として風が吹き荒れる。身体が浮くかと思うほどの強風だった。
思わず、リディエータが目を閉じると、すべてが終わっていた。
目を開いたときには、誰もいなくなっていた。周囲を見渡しても、影ひとつない。
いわく、夜の仮面は不思議な力によって、絶大な権力と兵力を有する貴族と戦って来た。
一説には、悪魔と取引して得られる禁忌の法――魔術とも伝えられている。
「……これが、そうなの……」
このことに、リディエータは呆然と立ち尽くした。
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