第141話 愚者の歩く道
「私は……」
愚者なる男は、夜の丘でつぶやいた。
お気に入りだった街を見渡せる丘は、自分たちの戦いでボロボロになってしまっていて、お世辞にも見栄えがいいとは言えなかった。
しかし、彼はそれが逆に心地よかった。
「はぁ……」
今まで目標としてきたものが、生きる意味そのものだったソレが偽りだと知って、男はまだ心の整理がついていなかった。
自らが犯した罪咎と、それを許されたこと。
複雑な感情がグルグルと渦巻いていた。
「賢者様……」
つい癖で、愛すべきあの方の名を呼んでしまう。
もうあの人はこの世にいない。
そして、蘇ることすらない。
それは分かった……分かっていた。
けど、現実として突きつけられると、いささか心に来るものがあった。
ポッカリと空いていた穴。それを塞いでくれた狂気という名の詰め物。
それすらも消え去って、残ったのは傷だらけの心のみ。
心は痛いほどに傷ついているのに、あの方への尊敬の気持ちは消え去らないのだから、恐ろしいものだ。
これは尊敬なのか。
一種の洗脳で、自分がそれに縋り、依存し、勝手に崇高なものにしているだけではないのか。
考えなくてもいいことを、あーだこーだと考えてしまう。
なにか考えていないと、世界に呑み込まれてしまいそうだから。
「はぁ……」
今日はもう帰ろう。
そう思ったところで、ふと彼は気がつく。
自分に帰る場所などないということに。
「あ、はは……あは…………」
そうだ、もう、ないんだ。何もかも。
今までは決まった寝床など決めず、落ち着ける場所があれば気絶するように眠っていた。
狂っていられたときはそれで良かったが、正気に戻ってしまえば受け入れがたい。
というか、温かい寝床が欲しかった。
そんなに高くなくてもいいし、贅沢でなくてもいいから。温かくて、安心できる、幸せな寝床。
でも、それを手にすることも、求めることさえも今の自分には許されない。
「は、はは…………」
乾いた笑い声をこぼした彼は、どこか寝れる場所を探そうと、のそのそと立ち上がった。
周りには誰もいない。
傷だらけで、むき出しの大地が広がっているのみだ。
その、はずだった――――
「副てんちょー!! 何してるんですか!!!」
荒野には似ても似つかない、テンションの高い少女の声が響く。
「ユーリちゃん……どうしてここに?」
愚者は、ボロボロの服を慌てて直しながら疑問を投げる。
この非常事態に、女の子が一人でこんな荒れた丘に来るなんて、おかしい。
「どうしてって、そりゃ副てんちょーを探しに来たんですよ!! 何してるんですか!!? こんなところで!!」
彼の疑問に、『ユーリちゃん』と呼ばれた少女は、プンプンと怒りながら答える。
声は怒っているが、その表情には彼を見つけられた安堵が滲んでいた。
「というか、ここなんなんですか? もっとキレイでしたよね。そういえば、スゴイ音もしてたし、ピカピカって光ってましたよね。」
何も言わぬ彼に、少女は言葉を続けていく。
「もしかして、それ副てんちょーの仕業ですか?」
冗談めいた声で自分の顔を覗き込みながら笑う少女に、男は内心ギクリとしながら曖昧な笑みを浮かべた。
「なわけないですよねー。ほら、副てんちょー帰りますよ。てんちょーがカンカンです。『この非常時にあいつは何してんだーっ!!』って。今の、似てませんでした?」
少女はコロコロと話題を変えて話し、てんちょーのモノマネを挟みながら、楽しげに笑う。
「似てたよ。うん……似てた………」
答えようとした男の声は、やがてポツポツとしたものになり、最後には小さな嗚咽に変わった。
「ちょっ、何泣いてるんですか!!?」
少女は男の顔を覗き込んで驚く。
それもそのはず。男がポロポロと涙をこぼして泣き始めたのだから。
「帰ろう、一緒に」
彼は止まらない涙を拭いながら、少女を見上げてつぶやいた。
「はい、帰りましょ!!!」
その声に、少女は実に満足げに笑ってみせる。
「とりあえず、後でクリームパイ作ってくださいね。もちろん、ブッドレア副てんちょーのおごりで。」
星が輝く空の下。
愚者にとって少女の笑顔は、それと同じくらい……もしくはそれ以上に、輝いて見えたのだった。
一度道を踏み外したものは、もう戻れぬのか。
転んでしまえば立ち上がることさえ許されず、じっと石を投げられ続けなければならぬのか。
そんな問は難しすぎて、愚者にはわからない。
それこそ、賢者にしか解けないのだろう。
けれど、愚者には何もできないかといえば、それもまた違う。
愚者は愚者なりに、愚者らしく。
愚かだけれどと確実に、一歩一歩。
己の罪咎の重みを感じながら、歩いて、歩き続けるのだ。
そしてそのそばに、杖が一本あろうがなかろうが。
そんなことは、大きな問題ではない。
ゆっくりと、けれども着実に。
歩き続けることことが大事なのだから。
それが愚者に残された道であり、
これから、愚かなるブッドレアが歩んでいく道でもある。
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