エピローグ
全力さんとアケミは港に向かった。船は小奇麗に改修されていたが、あの大カジキと戦ったころの面影を確かに残していた。
「ずいぶん綺麗になったな」
「大切に使っているからね。全力さんの『死者の書のしもべ』号だ」
「アケミにやったんやから、船の名前を変えても良かったのに」
「忘れちゃったの? この名前を付けたのは子供の頃の僕だよ。全力さんが何時でも、元の世界を思い返せるようにってさ」
「そうか……。そうやったな」
全力さんは、まだ古書店だった頃の『死者の書のしもべ』を思い出していた。若かった頃の伊集院や、ヴァルダやひーちゃんが何時でも店の中にいた。漫才の相方はひーちゃんで、毎日のように伊集院からおひねりを貰っていた。もう二度と、あの幸せな世界に戻ることはないだろう。
「戻ったばかりの頃は、本当に楽しかった。わしは向こうの世界に十五年もおったんや。アケミの十年間は楽しかったか?」
「全力さんが居なくて寂しかったよ。でも、だから頑張れた。もう、何処にもいかないよね?」
「うん。戻りたくても、もう戻れんと思う」
「そうだ、全力さん。お家にはもう行ったかい?」
「行ったよ。なんか、ごっつい豪邸が立っとった。守衛までおったで。なんなん、あれ?」
「全力さんが居なくなった後、僕はあの家に住んでたんだけど、二年前に突然、えっちゃんが大金を持って戻って来たんだよ」
「ほんまに?」
「うん。元々あの土地はえっちゃんのものだから、僕は何も言えなくてさ」
「そっかー。わしが網元から独立させたようなもんなのに、すまんなあ……」
「いや、大丈夫。別に追い出された訳じゃないんだ。僕は今もあの家に住んでいるし、えっちゃんは、僕の後援会の最大のスポンサーなんだよ」
「えっ?」
「カジノの権利もえっちゃんが、無理やりもぎ取って来たんだ。表向きには、僕の功績になってるけどね」
そういって、アケミは笑った。多分、アケミは、えっちゃんの実の息子であることを知らないのだろう。カジノの誘致を成功させたことを考えると、アケミの本当の父親は、この国の中枢にいる人物なのかもしれない。
「地盤を継がせるとか、そういう事かなあ……」
「ん? 何のこと?」
「いや、何でもない。えっちゃんから、家族の事を何か聞かれたか? 例えば、父親の事とか」
「僕の父親は全力さんだよ。自分でもそう言ってたじゃないか。忘れちゃったの?」
アケミがボクの事を見放さなかったように、ボクはアケミがどんなボンクラになっとっても、絶対にアケミの事を見放したりしません。あんまり出来は良くなかったかもしれんけど、ボクはアケミの師匠であり、親やからね。
親愛なる息子へ。人間の全力さんより。
「こりゃあ、比喩的なもんやろ。この時は、もう二度とお前に会えんかもしれんと思って、ちょっと感傷的になっとったんや」
「わかってるよ。それでも、僕は嬉しかったんだ。ずっと、全力さんが僕のお父さんだったらいいなあと思ってたからね」
「そうかー」
「まあ、僕がこの手紙を見せたら、えっちゃんは呆れてたけどね」
全力さんは少し恥ずかしかった。けれども、アケミの気持ちはとても嬉しかったし、理由はともあれ、実の母子が一緒に暮らすことはいいことだと思った。
「ところで全力さん。一つ不思議なことがあるんだ」
「なんや?」
「えっちゃんは、僕が子供の頃と、見た目がちっとも変わらないんだよ。突然、村から姿を消したのもその事が原因らしいんだ」
「なんやそれ? まるで、ヴァルダみたいやな……」
「ヴァルダ?」
「わしをこの世界に呼び出した張本人や。お前の名前を貰った男がごっつう惚れとってな。見てて可哀想やったで」
「そうなんだ。僕は昔から、えっちゃんの事はちょっと怖いけどね」
「わしもや」
「まあともかく、そろそろ、自分の事を知る人間もいなくなってるだろうと思って、村に戻って来たんだって」
「合百は、最後は負けるように出来てるんです。女の子は貴方が好きなんじゃなくて、貴方のお金が好きなんです。いい時は、決して長くは続きません。貴方には釣りの才能があるんだから、ちゃんと真面目にやりなさい」
ウミガメ獲りをやってる時に何度も思いだした えっちゃんの言葉が、久しぶりに全力さんの脳裏をよぎった。
「じゃあ、あの時突然いなくなったのは、わしが合百をやめられんかった事と関係なかったんかなあ……」
「それは分からないけどね。でも時々、二人で全力さんの話はするよ」
「どんな話?」
「合百好きだったとか、村じゅうの女の子を追いかけ回していただとか、他愛もない話。いつか猫になって戻って来るんだよっていうと、『そんなバカなことがありますか』って、あきれ顔をするけどね」
本当に猫になって戻って来た全力さんを見たら、えっちゃんはなんというだろう? そもそも、信じてもらえるだろうか?
「ねえ、一緒に暮らそうよ、全力さん。大丈夫。部屋なら一杯余ってるんだ」
「そりゃ、ありがたいけど、えっちゃんがなんていうかなあ……」
「僕が何とか頼んでみるよ。父と子は一緒に暮らすのが自然だろ? たとえ血は繋がっていなくってもさ」
「今は、種まで違うで。しかも、えっちゃんは犬派や」
「大丈夫、大丈夫。ほんのちょっとダイエットすれば、全力さんなら十分現役で行けるさ」
そう言ってアケミは、全力さんを抱え上げた。アケミはニコニコ笑いながら全力さんを連れて家に帰って、それから先の事は誰も知らない。
『全力さんと海』(おしまい)
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