第二十五話「全力さんの手紙」
「ねえ、全力さん、このひどい風は、何日続くの?」
「三日くらいやな。いや、もっとかもしれん」
「丁度いいや。漁の準備は全部やっておくよ。全力さんは手を治して」
全力さんとアケミは、ヴァイマール食堂で遅めの昼食を摂っていた。オイゲンさんの配慮で貸し切りだ。全力さんは、目の前の食事にも手を付けずに、じーっと虚空を眺めている。
「どうしたの、全力さん?」
「いや、何でもないよ。きっと、まだ疲れが取れてないんやろうな」
「仕方ないよ。三日半、殆ど寝てないんだろ?」
「うん」
「どのくらい辛かった?」
「並大抵やない。最初の二日はずっと大魚と戦っとった。残りの一日はずっとサメや。もう二度とやりとうないなぁ」
「後で綺麗なシャツを持ってくるよ。食べ物もね」
「わしのおらんかった間の新聞も頼むよ」
「わかった。食べ物と一緒に持ってくる」
アケミは、オイゲンの用意してくれた
「早く良くなって欲しいんだ。まだ、教わりたいことがたくさんあるからね。全力さんは、何でも教えてくれるんだから」
「ああ、チャー研とかな」
「それはもう十分だけど、頭と体がまともになるまで、良く休んでね。手に効くものも薬屋で見つけてくるから」
「アケミ……。冷める前にメシ喰おうか?」
「僕はもう食べてるよ、全力さん」
「そうか、そうやったな」
全力さんはそう答えると、アケミと一緒に静かに食事を摂り始めた。
「ところで、さっきの一万ドルの話やがな……」
「うん」
「お前の気持ちやから受け取ってやりたいんやが、実は無理なんや。わしはもう漁師を廃業するけえ」
「ええっ!」
「ちょっと長い旅に出る。悪いが、わしにツケがあったり、金を貸しとるという奴がおったら、全部払っといてくれ」
「それは構わないけど、そんなの千ドルにも満たないだろ?」
全力さんは、その答えを予期していたようだった。
「残りの金で、お前はサラの釣具をそろえるんや。これを機に独立せえ」
「道具なんか揃えたって、船が無いよ」
「わしの船をやる。元々、お前から金を借りて張った合百の配当金で買ったもんや。遠慮せんでええ」
「旅って、どこにいくのさ?」
「外海よりも、もっともっと遠いとこや。でも安心せえ。ちゃんと帰ってくる。わしは えっちゃんとは違うからな」
「じゃあ、少しはお金も持っていきなよ。旅費がいるだろ?」
「そうやな。じゃあ、千ドルだけもろうとくわ。150ドルはわしの予想やしな」
「そうだね」
アケミは、カバンの中から十ドル紙幣の札束を一つ取り出し、全力さんに差し出した。全力さんはニコニコしながらそれを受け取った。
「戻って来るって、信じていいんだね?」
「勿論や。帰ってきたら、また一緒に漁をやろう」
「約束だよ」
全力さんは力強くうなずいた。そして、凄い勢いでシュニッツェルをほおばると、まだ食べてる途中なのに笑いながらこういった。
「
「彼女が戻ってくることは、まずないからね」
「そういうこっちゃ。あとなー、オイゲンに必ず、魚の頭をやってくれな。今回の漁の数少ない戦果やから」
「うん、わかった」
アケミのその答えを聞くと、全力さんは安心したのか、凄い勢いで目の前の料理を平らげてしまった。
「あー、喰った喰った! わしは先に帰って、もう一回寝るわ。服と新聞を後で頼む。ゆっくり休みたいから、お前が寝る前くらいの時間でええ」
「わかった。それまでに、ツケの清算もしておくよ」
「頼んだでー」
全力さんは満面の笑みを浮かべながらそう答えた。
そして、オイゲンの料理に礼をいうと、そそくさと食堂を出て行った。
全力さんは家に戻ると、ベッドに腰かけ、サイドテーブルを使って何事かを書き始めた。その正面には、虚空に浮かぶユキの姿がある。
「何をしているの?」
「アケミに手紙を書いとるんや。何か形に残るものが、一つくらいないと可哀想やからな」
「そう」
「しっかり寝たのに、アンタがそがいしてプカプカ浮いとったら、これはもう現実やと認めるしかないやんか。まあ、ひーちゃんの声が脳内にガンガン聞こえとった時点で、これは夢やないと確信しとったがな」
「貴方はこの世界での使命を立派に果たしたわ。今度は、元の世界の使命を果たす番よ」
虚空に浮かぶユキは、全力さんにそう言った。
「一体、いつ戻るんや?」
「もう一度寝て起きたら、もう向こうの世界よ」
「こっちの世界の物を、少しは持っていけるか?」
「ポケットに入る分くらいなら」
「それで十分や」
全力さんは部屋の隅に行き、大切にしまっていた えっちゃんの写真を箱の中から取り出した。
「これと、さっきアケミがくれた千ドル。持っていくのは、それだけで十分や」
「他に何もないものね」
「うん。わしはとても幸せもんや。千ドルもくれる孝行息子を持ったからな」
全力さんは、えっちゃんの写真と千ドルの札束を丁寧に風呂敷に包みこみ、枕元に置いた。そして涙をぬぐいながら、ユキに向かってこういった。
「もうちょっとだけ待ってくれな。直ぐに書いてしまうけえ」
その日の夜。アケミが全力さんの家を訪れると、全力さんの姿は既になかった。ベッド脇に置かれていたサイドテーブルには、こんな手紙が封もされずに置かれていた。
たった二枚の手紙なのに、最初の数行を読んだだけで、涙がひどく溢れてしまって、最後まで読み終えるのにとても苦労したそうである。
親愛なるアケミへ。
手紙やから、なるべくまじめに書こう思うとるけど、あんまりそげなことはしたことないけぇ、変なところがあっても勘弁してつかあさい。
ボクはこれまで、一度だってアケミに嘘をついたこたぁありません。ダメなところも含めて、全部隠さずに見せてきました。でも、最後の最後で、一つだけ嘘をついてしもうた。あのままお店で話していたら、泣いてしまいそうじゃったからね。
ボクはこれから猫に戻って、元の世界でやり残して来た宿題を片付けてきます。いつか必ず帰ってくるけど、それが半年後なんか、三年後なんか、それとも何十年も先になるんか、ボクにも本当にわかりません。
アケミは、オワコンのボクを最後まで見放さんかった優しい子です。漁の才能もめっさある。だから、ボクみたいに、外海に出て大物を釣ったろうなんてヤマっ気を起こさんかったら、きっと村一番の漁師になれます。鉄板やで。合百はやるなとはいわんけど、あんまり夢中になったらいけんよ。
人間に生まれ変わって、あまり良い事はなかったけど、ひとつだけ、とても大切なことに気づくことが出来ました。それはね、この世界では、自分の意志で選び取ったモノだけに価値があるってことなんよ。
アケミがこれからの人生で何を選ぶのか、ボクには全然分からんし、想像も出来ません。だけど、選び方だけはちゃんとしっとる。
人生で本当に大切なものはね、選んでも何の得もないかもしれんのに、それでも絶対に諦められないもののことです。だから、そういうものを、これから頑張って見つけてね。そういうものが無い人は、どんなにお金を持っていても不幸なんを、ボクはちゃんと知っとるんよ。
次におうた時に、アケミがまだ一人でおるか、奥さんや子供がいるか分からんけど、誰かいい人が傍におったらいいなあって思います。そしたら、ボクがおらんでも寂しくないもんね。また会うその日まで、健康に気を付けて達者に暮らしてください。
ボクはこれから猫に戻るから、次に会う時は、人間の姿をしとらんかもしれん。だけど、ずっとボクと一緒にいたアケミなら、直ぐにボクやと分かると思います。えっちゃんに怒られて堅気になろうと頑張っとっただけで、ボクの本質は元々、猫だからです。
だけどね、猫でも人間でも、アケミの事が大好きな気持ちに変わりはないよ。これは、絶対にウソやない。もし何か嫌なことがあったり、落ち込むことがあったりしたら、この手紙を読み返して、時々ボクの事を思いだしてください。そしたらボクも、向こうの世界で頑張れるように思うんよね。
アケミがボクの事を見放さなかったように、ボクはアケミがどんなボンクラになっとっても、絶対にアケミの事を見放したりしません。あんまり出来は良くなかったかもしれんけど、ボクはアケミの師匠であり、親やからね。
親愛なる息子へ
人間の全力さんより
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