第二十四話「大団円」

「ベッドは仲間や! そうだ、ベッドこそ味方や! ベッドというものは素晴らしい。まだわしが猫だった時、一日の三分の二は寝とったもんや。寝るのが、こんなに楽しみなのは久しぶりやなー!」


 全力さんは辛いことが多すぎて、逆にテンションがハイになっていた。ヤリチンのイルカをオールでぶん殴ったりしなければ、こんなことにはならなかった訳だが、全力さんにはそんなこと知る由もない。


「何でもない。大物狙いがあかんかっただけや」


 小さな入り江に入っていくと、食堂の光は消えていて、みんな寝てしまっているようだった。入江の中はとても静かだ。全力さんは、岩場の下のこじんまりとした砂利浜に船を乗り上げ、舳先のロープを岩にしっかりと結びつけた。


「最初から、ちゃんと分かっとったやんけ。悪い時ほど、コツコツや」


 全力さんはマストを外し、帆を巻き上げて縛った。それからマストを肩に担いで、坂をのぼり始めた。立ち止まり振り返ると、船尾の向こう側に魚の大きな尾が見えた。ぴんと立ち、街灯の光を反射している。背骨は剥き出しで白い線となり、くちばしのついた頭は黒い塊に見えた。肉は無い。


 全力さんは再び坂をのぼり始め、その途中で倒れ込んで、マストの下敷きになってしまった。全力さんは立ち上がろうとしたが、どうにも上手く行きそうにない。


「もういらん、こんなの!」


 全力さんはマストを放りだし、座り込んだまま周囲を眺めた。向こうのほうで、一匹の三毛猫が近くを横切った。何か用事がありそうな様子だ。


「こんなが全力さん爆弾か? こげな世界、全部いてもうてくれ」


 猫は、「ニャー」と鳴いて立ち去った。勿論、爆発は起こらない。全力さんはマストをその場に打ち捨て、再び道を歩き始めた。途中で五度も座り込みながら、やっと小屋に着いた。


 暗闇の中で瓶を見つけ、水を一口飲んだ。そしてそのままベッドに飛び込む。肩の上まで毛布を引っ張り、新聞紙の上にうつぶせになると、あっという間に眠りに落ちてしまった。



 朝になり、戸口から少年が覗き込んだ時、全力さんはまだ眠っていた。今朝は強風で漁に出られないので、昼間でゆっくりと寝て、それからいつものように、全力さんの小屋に来たのだった。


 全力さんが、ちゃんと呼吸しているのが分かった。傷だらけの全力さんの手を見て、アケミは泣き出した。音も立てずに小屋から出て、コーヒーを用意しに行った。道を下りながら、アケミはずっと泣いていた。



 多くの漁師が全力さんの船のまわりに集まり、そこに括られた物を見ていた。一人はズボンの裾をまくり上げて水に入り、その骨の全長をロープで測っている。


「様子はどうだ?」


 漁師の一人がアケミに尋ねた。


「寝てるよ」

「そのまま寝かせといてやれ」

「うん」


 泣いているのを見られても、少年は気にしなかった。


「鼻の先から尻尾まで、二十フィートもあるぞ!」


 魚を測っていた漁師が大きな声で言った。


「そうだろうね。今の全力さんはバカヅキさ」


 少年はそうつぶやくと、その場を立ち去り、ヴァイマール食堂に向かった。

 コーヒーを貰うためだ。


「熱くして。ミルクと砂糖をたくさん入れてよ」

「他には?」

「また後で。お金ならたっぷりあるんだ。何なら食べられそうか聞いてみる」


 そういって、アケミはカバンの中から十ドル紙幣を数枚取り出し、店主のオイゲンに差し出した。オイゲンはコーヒーを準備しながら言った。


「とんでもない大きさだったな。あんな魚、初めてだ」

「うん」

「お前も昨日、デカいのを二匹釣ったしな。立派に全力さんの後を継げるよ」

「あれくらいじゃ、まだ駄目さ」


 アケミはそう言って、また泣き出した。

 オイゲンはコーヒーをアケミに渡しながらいった。


「少し落ち着いたら、一緒に食事に来るといい。色々と準備してとくよ」

「皆に、全力さんをそっとしておくように言っておいて。また来る」

「なあ、アケミ」

「なんだい、オイゲンさん」

「全力さんに、『あんたはオワコンなんかじゃない』と伝えてくれ」



 アケミは、コーヒーの入った缶を持って小屋へ行き、全力さんが起きるまでずっと傍に座っていた。全力さんは一度起きそうな様子を見せたが、体がどうにも動かない感じだった。


「起き上がらなくていいよ、全力さん。でも、コーヒーが冷めちゃったから、ちょっと薪を借りてくるね」


 少年は通りを渡って、火を起こすための薪を借りてきた。

 再びコーヒーを温め直し、ゆっくりとコーヒーをコップに注ぐ。


「飲めそうかい?」

「うん」


 全力さんは受け取って飲んだ。


「やられたよ、アケミ。完全にやられた」


 全力さんはそう言った。


「大物を釣り上げたじゃないか。みんな吃驚してるよ」

「ああ、魚はちゃんと斃した。やられたのは、その帰り道だよ」

「ヨゴレザメかい?」

「いろんなのが来た。何匹斃したかもうわからん。銛もナイフも無くなって、舵棒まで使って戦ったけど、どうにもならんかった」

「勝った事実は変わらないさ。一度はやれたんだ。またやればいい」


 そう言って、アケミは全力さんを慰めた。


「オイゲンさんが、『全力さんはオワコンなんかじゃない』って伝えてくれって。あの頭はどうする?」

「オイゲンにやろう。煮込めば出汁くらいは取れる」

「槍は?」

「欲しけりゃ、お前にやる」

「欲しい」


 アケミは言った。


「ねえ、全力さん。もう一人で外海に出たりしないで」

「皆、わしの事を探しとったんか?」

「勿論。沿岸警備隊や、飛行機まで出たよ」

「アイツに相当引っ張られたからな。馬鹿でかい海に小さな船だ。見つけるのは難しい」


 全力さんは、つぶやくようにそう言った。幻影に話しかけるのではなく、目の前の相手と話せるのは嬉しいことだと全力さんは思った。


「船に乗ってる間な、何度もお前がおったらなあと思ったよ。幻覚まで見た。魚は何匹釣れた?」

「一日目に一匹。二日目も一匹で、三日目は二匹」

「立派なもんや」

「今度は、また一緒に行こう」

「駄目や。わしには運が無い。もうすっかり無くなったんや」

「運ならあるよ。バカヅキさ」



 アケミはそう言って、持っていたカバンを逆さにした。中から十ドル紙幣の札束が、ドサドサ落ちてくる。控えめに見ても、一万ドル以上はありそうに見えた。


「何や、この金?」

「合百さ。157ドル高に賭けたんだ。ピッタシだったよ」

「わしはお前に、150ドル高に賭けてくれと頼んだはずだが?」

「そっちも勿論買ったよ。でも僕は、全力さんの連敗記録である157も一緒に買ったんだ」

「何故?」

「落ち目の全力さんが、嫌がった数字だからさ」


「あの時、全力さんのツキは最低だった。だったら、その数字は逆に来るんじゃないかと思ったんだ」


 そういって、アケミは笑った。「曲がり屋に迎え!」という相場格言が合百の世界にはある。「ツキのない奴の逆をやれ」という意味だ。少年はそれを着実に実行したのだった。


「わしは、何も教えとりゃせんのに。悪い事ばっかり先に覚えるなぁ……」

「全力さんのいう事なら、何でも覚えるようにしてるんだよ。弟子だからね。チャー研の台詞よりは役に立ったさ」

「いや、チャー研は結構役に立つぞ。覚えときゃ、偽善者に騙されんですむ」

「そうだね」


 合百の配当は一等が六千ドル。二等は三千で、三等が千五百だった。


「全部、僕が獲ったよ。ピッタリ賞のボーナスの千ドルを足し、胴元の10%を引いて、一万と三五〇ドル。僕はこの三五〇ドルだけでいいよ。ねえ、全力さん。この一万ドルで生活を立て直して」

 

 アケミはそう言って、千ドルの札束を十個、全力さんに差し出した。


「どういうこっちゃ。わしが当てたのは、良くて二等の三千ドルだけじゃろう?」

「150の前後も買ったのさ」

「前後?」


「150行くと思う相場は、大抵150まで行かん。149.8辺りが精いっぱいや。人間は切りのいいところで、売りたがる生き物やからな。もしそこを抜くなら、154まではいく。150で指す奴はボンクラや」


 アケミは全力さんの真似をしながらそう言い、全力さんに一枚のチッカーテープを差し出した。そこにはこう打刻されていた。


【149】【150】【154】【157】


「だから僕は150だけじゃなくて、149と154も買っておいたのさ。四点中三点に配当が出て、一点はドンピシャだ。なかなかの成績だろ?」

 

 その言葉を聞き、全力さんは呆れ顔をしながらいった。


「アケミ、お前は合百でも十分に食っていけるよ」

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