第二十三話「帰還」
「そういや、魚を捕まえたら、お祈りを唱えるという約束があったな。でも今は疲れとって無理や。陸に上がってからにしてもらお」
全力さんは独り言ちた。そして気づいた。もしかしたら自分は、魚に勝った時点で運を使い果たしてしまったのではないかと。
「馬鹿言うな。これから運がつくということだってあるやろ? 銛を取られ、ナイフは折られ、両手はぼろぼろや。これだけひどい目におうたんやから、運だって買えるやろ」
そういや、合百の結果はどうなったかな? と全力さんは思った。幸運というのは色々な形で現れるものだ。何が幸運かなんて、分からない。ただ、どんな形にせよ、多少は手に入れたいと思った。
「いや、やっぱダメかなぁ……。あのシュモクは殺そうと思えば、わしを殺せたんや。命が助かっただけでも、めっけものかもしれん」
そもそも全力さんは、一五〇日もの不漁を引き受けた代わりに、大量のツキをため込んだのである。そして、あの魚に勝った。合百で大勝した時も同じだ。努力は大事だし、必要不可欠なものであるが、それだけで上手く行くほど世の中は甘くない。
何もしなくても、毎日幸せに暮らせる生き物は猫だけだ。一年、三百六十五日。本当に楽しい時間が三日もあれば、ソイツはマシな方だろう。普通の人間にはその三日すらない。苦痛からすぐ逃げ出す人間には、幸せは決してやってこないのだ。
その三日のために、辛い時間を腐らずに耐え忍び、努力する。
そうして延々とツキをため込むのが人生の妙諦だ。
全力さんはそれを、この世界に来て学んだ。だが、そのツキを既に使い果たしたとすると、これから先はどうなるのだろうか?
「まあ、ええわ。もっとひどい目にだってあったるわい。早うベッドに倒れ込みたい。望みはたくさんあるが、今すぐ叶えて欲しいのはそれだけや!」
全力さんは舵を取りやすいように体勢を直した。空に反射する村の灯りが見えてきたのは、夜の十時頃だった。最初はおぼろげで、空が明らんでいるだけだったが、やがて、光ははっきりと見えてきた。
航海は順調に進んだ。魚の肉もまだ四割ほど残っている。もしかしたら、このまま逃げ切れるかもしれない。全力さんは光のほうへ舵を取りながら考えた。
「でも多分、ここまでやな」
嫌な予感というものは、大抵当たるものだ。幸運が降ってくることは滅多にないが、最善の手を打っていても、不幸はどんどんやってくる。サメはまた来るだろう。一方、全力さんに出来ることはほとんど無い。なにしろ、まっ暗闇で武器も無いのだ。無理をさせた筋肉や傷に、夜風が沁みた。
「出来れば、戦わずに済ませたいなあ……」
絶対に無理だと思いながらも、全力さんはそう呟いた。
真夜中になる前に、スナメリの命を受けたヨゴレザメの大群が群れをなして襲ってきた。無駄な戦いだと分かってはいたが、全力さんは最後まで戦った。
いくつもの背びれが水中に描く軌跡と、魚に飛びかかる時の燐光だけが微かに見える。あごが魚を食いちぎる音や、下から襲ってくる魚に船が揺らされる音が聞こえた。気配と音だけを頼りにして、全力さんは必死に抵抗した。
何かに棍棒をつかまれたと思うと、次の瞬間には奪われていた。全力さんは舵棒を引っ張って舵から外し、両手で握って何度も振り下ろした。だが敵はもう舳先に集まり、次から次へと魚に飛びかかって、肉を引きちぎった。サメが折り返すたびに、ちぎられた肉片が輝いて見える。
一匹がとうとう頭に食いついた。無意味だと理解しながらも、全力さんは舵棒をサメの頭に振り下ろした。サメの顎は、なかなか噛みちぎれない魚の頭から動けないでいる。全力さんは泣きながら、何度も何度も舵棒を叩きつけた。舵棒が折れる音が聞こえる。
裂けた切れ端でサメを突いた。突き刺さる感触があった。素早く引き抜いて、もう一度突き刺す。サメは離れて、転がった。そのサメが最後の一匹だった。もはや、肉は無くなったのだ。
全力さんは息をするのもやっとだった。口の中が血の味で一杯になった。一瞬それが不安になったが、長続きはしなかった。全力さんは海に唾を吐き、こう言った。
「食え、外道ども。人を殺した夢でも見とれ!」
四日目に入った航海が、漁師としては完全に無意味に終わった事を全力さんは悟った。船尾に戻り、折れた舵棒を舵の穴に合わせた。まだなんとか操舵はできる。全力さんは肩に袋をあてて、船の向きを正した。
船は軽々と進んだ。兄弟の体はもう骨しか残っていない。全力さんの中にはどんな思考も、どんな種類の感情も無かった。全ては過ぎ去り、今はただ村に帰る事ことだけを考えていた。
夜のうちに、名もわからぬ小さな魚たちが魚の残骸をついばみ始めた。テーブルのパン屑を拾うようなものだ。全力さんはそれには気に留めず、舵を取る以外の何にも注意を払わなかった。
「スナメリさん、あのジジイを殺さなくていいんですか?」
「ああ、内海は奴らのテリトリーだ。これ以上追うのは危険だろう」
スナメリは十分に復讐を果たしたと思った。
「俺たちは、あの爺さんの体は壊せなかったが、心は完全に破壊したんだ」
「心?」
「体の傷は簡単に治るし、殺してしまえば、苦痛はそこで止まってしまう。だが、心の傷はずっと奴を痛めつけるのさ」
いくら痛めつけても希望を捨てない全力さんの姿を見て、殺すだけでは足りないと、スナメリは考え直した。だから、肉を目の前にすると狂乱索餌で何も考えられなくなる、ヨゴレザメだけを派遣したのだ。
「殆ど不眠不休で戦い続けたにもかかわらず、奴には何も得るものが無かった。漁師としては再起不能だろう」
「そうですね」
ヨゴレなど、いくら死んでも変わりはいる。生意気なアオザメを始末してくれたことに関しては、スナメリはむしろ感謝していた。
「さあ、帰ってキメセクだ。奴の所為で、俺ももう四日も交わってない。女たちが待ってる」
「スナメリさん。フグ毒はやり過ぎると寿命を縮めますよ。貴方は我々の指導者でもあるのですから、体をいたわってください」
側近のバンドウイルカがそう忠告した。
「寿命なぞ、オスとしての機能が生きている間だけで十分さ。交われなくなれば、俺は自ら死を選ぶ」
「頑張り過ぎです」
「何しろ敵は七十七億人だからな。何世代かかろうとも、我々は全ての海を取り戻し、いずれは地上をも支配するんだ」
だが、スナメリは少し勘違いをしていた。全力さんを廃業に追い込んだのは間違いないが、漁師としての勝負は、あの魚を斃した時点で既についている。
肉をすべて奪われてなお、全力さんは、漁師としての自身の能力を疑う事がなかった。大事なのは最後まで全力を尽くすことであって、全力さんはそれを立派にやり遂げたからだ。
全力さんの心は、決して折れてはいない。死闘を尽くして戦った兄弟の高貴な体を無残に傷つけてしまったことに対して、申し訳なさを感じていただけだ。
重荷を抱えない船は、すこぶる軽く速く進んだ。頑丈で、舵棒以外は何の不都合も無い。立派な船だと全力さんは思った。
「そういやこの船も、元々はアケミの金で買った合百の配当金で買うたもんや。魚の代わりに、この船をやろう。猫に戻るわしには、もう必要のないもんやしな」
船が海流より陸側に入ったのが感じられた。ここはもう内海だ。海岸沿いに浜辺の村々の灯りが見える。もう、帰るのはたやすいことだ。
「何だかんだ言っても、無事に帰ってこれた。風に感謝や」
全力さんは大切に取って置いた水筒の水を一気に煽っていった。
「大きな海には、仲間もいれば敵もおる。今日の風は仲間やった」
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