第十八話「罪」
「わしに残されたんなぁ、この魚とアケミだけじゃ。とはいえ、魚に気ぃ取られたデントゥーソの脳天に銛をぶち込んだわしのやり方は、本当に正しいんじゃろうか?」
いや、正しさなんて誰かの都合に過ぎんのや。
相手がフェアならこっちもフェアにやる。卑怯には卑怯で返す。
それだけのこっちゃ。
正義を声高に叫ぶ奴は大抵クズであることを、全力さんはチャー研で学んでいた。一五〇連敗の最低のメンタルの中、全力さんは殆ど不眠不休で三日間戦って、あのカジキに勝ったのだ。正当に勝ち取ったものを奪おうとする輩に対して、慈悲など必要ではない。
そう思った瞬間、頭の中でひーちゃんの声が聞こえた。元の世界で全力さんの漫才の相方だった、ヴァルダによく似た女性だ。
「全力さん、もっと気軽に考えようよ。ちょっと、思考がネガティブになってるよ」
「この声……ひーちゃんか?」
「うん。夢の中でずっと見てたよ。諦めちゃダメ」
海流の中心部に入っていけばどんな事が起こるか、全力さんにはよく分かっていた。だが、できることは何も無い。
「でも、またサメが来る。もう武器が無いんや」
「なければ作ればいいよ」
「作る?」
「全力さんは、今までどうやって仕掛けを作ってたの?」
「どうって、ナイフ……。あっ!」
「ね? まだあるじゃない」
「そうやな。オールの握りの部分にナイフを括りつければ、銛になる。まだ戦えるわ」
全力さんはその作業を、脇の下に舵棒を挟みながら進めた。
帆の端に繋がれた帆綱は、足で踏んで押さえている。
「こうしてる間にも、お家には近づいてる。四十ポンド失って、船も身軽になったでしょ?」
「せやなあ。ひーちゃん様様や」
風は強くなり、船は良く走った。尾の方は少し齧られたが、魚の上半身だけを見ていると、ほんの少しだが希望が蘇ってきた。希望を持たないのは愚かなことだ。罪でさえある。
「さあ、オワコンの年寄りの復活だ。だが、丸腰やないぞ!」
だが正直に言えば、全力さんは罪については、殆ど何も知らなかった。カリカリが何から出来ているのか、猫だった頃の全力さんは考えたこともなかったし、勿論、今でも知らない。カリカリとちゅーるだけが全力さんの知る食べ物の全てで、それさえあれば幸せだった。
時々、ひーちゃんが刺身を勧めてくれたが、
「なんか、ヌチョっとしてるからいいです」といって断っていた。
それを思えば、なんでも食うようになったもんや。
昔は食うどころか、血を見るのさえ嫌じゃったというのに。
猫だった頃の全力さんはヘタレで、全力で戦ってコオロギと五分だった。ヤドカリ相手にコテンパンにのされたこともある。そんな全力さんが人間に生まれ変わって、あの山のように大きなカジキを斃した。それだけで十分立派だ。
罪のことなど考えるな! もうずいぶん手遅れだ。そんなことは、能書きを商売にしてる連中に任せておけばいい。あのカジキが魚に生まれてその本分を尽くしたように、全力さんは漁師に生まれ変わって、その本分を尽くしたのだ。
しかし全力さんは意外なことに、考えるのが好きだった。まだ一人っきりだった頃、全力さんの家には何もなかったので、考えることを除けば、寝るか、チャートを引くくらいしかすることがなかったからだ。
全力さんは再び、自分の罪について考えを巡らせた。
「きっと、魚を殺したなぁ罪なんじゃろう? 自分が生きるためでも、皆に食わせるためでも、罪なんじゃろうな? だがそれじゃあ全てが罪や。罪を罪だと自覚しとらん奴を罰して何になる?」
「だから、考えすぎだよ、全力さん」
今度はひーちゃんの幻影がはっきり見えた。
「なあ、ひーちゃん。わしがあの魚を殺したんは、ただ生きるためでも、食料として売るためでもない。誇りを賭けて殺したんや」
「知ってるよ。この世界の全力さんは、漁師だもんね」
「そうや。元の世界に戻りたい気持ちもあったけど、そりゃ途中から来たもんじゃ。のうてもきっと戦うたじゃろう」
そう語る全力さんの目は、少しだけ潤んでいた。
「わしは、生きとった頃の奴を愛しとった。死んでからも変わらずに愛した。本当に愛しとるなら、殺すことも罪やない。そうやろ、ひーちゃん?」
「どうだろう? もっと、重い罪かも知れないよ?」
ひーちゃんは笑っていった。
「もしそうやとしても、殺したことに後悔はない」
ひーちゃんは、元の世界に居た時から、正しいとか正しくないという事を言わない人だった。ひーちゃんは爆弾作りの天才で、それは表向きには悪い事だったからだ。
「あいつはわしの兄弟や。腐肉を漁るような奴やないし、食欲の権化みたいなサメとも違う」
「そうだね」
「あいつは美しゅうて、気高くて、恐れを知らん奴やった。だからわしは殺したんや。美しいものを求めるのは、人の本能やろ?」
全力さんはそう尋ねた。ひーちゃんが爆弾を作るのは爆発の美しさに魅入られただけの話であることを、全力さんはちゃんと知っていたからだ。
「その通りだよ、全力さん。だけど今では、その理屈の分かる人は随分少なくなっちゃったんだよね」
「人間が、善悪を決めるのは傲慢や。それを決められるのは神様だけや」
全力さんにとっての神様は えっちゃんと、『なにくそ精神』を教えてくれたヴァルダだけだった。何が美しいかすらよくわからない人間が、善や悪を見定められる訳がない。
「わからんのは、
「全力さんは、自分の大切なものを守るために奴を殺した。ただそれだけだよ」
「快感のために殺すのは悪い事やないの?」
「そうかもしれないね」
ひーちゃんは少し寂しそうな顔をした。
「でも、破壊に快感が伴うのは、仕方のないことだと思うよ」
「せやろ? リア充のイルカをぶん殴った時、めっさスッキリしたんや。けれども、つがいのカジキを殺した時には、ひどく心が痛んだ。アケミも同じ気持ちやったろう。訳がわからん」
全力さんは船べりから手を伸ばして、サメがかじったあたりから魚肉を少しちぎり取った。口に入れ、肉質と味の良さを噛みしめる。締まっていて汁気が多く、牛肉のようだが赤身ではない。筋も全くなかった。市場にもっていけば、最高の値段がつくだろう。
「うまいなあ……。サメが食いたがるのも良く分かるわ」
「でも全力さんは、お肉が欲しくてあの魚を斃したんじゃないよね?」
「うん」
「どんなに良いお肉でも、サメにとっては、それはただの肉の塊。だけど、全力さんやアケミ君にとってはそうじゃない。結局は、そういう事なんじゃないかしら?」
「せやなあ……」
「分かる人には何も言わなくてもわかるし、分からない人にはいくら言葉を尽くしても伝わらない事があるんだよ」
そこまでいうと、ひーちゃんの声は聞こえなくなった。全力さんには、ひーちゃんの言ってる事が良くわからない。だけど、彼女が正しいことを言ってることだけは、ちゃんと分かった。
「色々理屈を付けとるけど、わしはやっぱり、アケミに凄いって褒めてもらいたいんやろうな。だから、こんなに必死になっとるんや。わしはアケミを、この世界に置いていくっちゅーのに……」
風は順調に吹き続け、二時間もの間、船は軽快に進んだ。だが、水に拡がる血の匂いを止める方法は無かった。全力さんは船尾で体を休めながら、時々カジキの肉を食べ、力を維持しようと努めていた。
その時、二匹のサメのうち、一匹目が見えた。
「今度は、ヨゴレザメや」
最初のサメの後ろに、第二のサメの尾びれが見えた。茶色い三角形のひれと、払うような尾の動きから、シャベル鼻のサメだと分かった。
二匹は匂いを嗅ぎつけて興奮していた。空腹のあまり頭が働かなくなって匂いを見失ったり、また見つけて大興奮したりしながら、二匹は確実に船へと近づいていった。
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