第二章「猫に戻る全力さん」編
第十七話「スナメリの復讐」
暗い色の血の雲が生まれて散っていった時、一匹のサメが深い水の底から浮かび上がってきた。サメはものすごい速さで浮上し、青い水面を割って太陽の下に現れる。そしてまた潜り、血の匂いを手がかりにして、船と魚が進んだ航路をなぞって泳ぎ始めたのだった。
それは巨大なアオザメだった。その体は、海で一番速く泳げるように出来ている。背はカジキのように青く、腹は銀色に光り、皮は滑らかで美しかった。巨大な顎を除けば、メカジキと同様の体だ。アオザメは水面のすぐ下を高速で泳ぎ、高い背びれは揺らぐことなく水を切り裂いていた。
その疾駆するアオザメの姿を近くで眺めている者があった。女の子を追っかけてる途中に、全力さんにオールでぶん殴られて海に沈んだ、あのヤリチンのイルカだ。
イルカは復讐の機会を狙って、全力さんの後を付けていた。すると眼前で、二晩にも渡るカジキとの戦いが始まってしまったのである。カジキは打ち倒されてしまったが、全力さんも半死半生だ。復讐の絶好のチャンスである。
イルカは大海原の中で血の匂いを見失い、獲物の行方を探っているアオザメに語り掛けた。
「アオザメ先輩!」
「なんやねん、君いきなりー」
「すみません。僕は友人を失って悲しんでる、ネズミイルカのスナメリと申します」
「めっさ胡散臭いなー。僕、お腹空いてカリカリ来とるんやから、用事があるなら端的にゆうてもらえる?」
話が早いのは、こちらとしてもありがたい。あのジジイはまだ銛を持っている。誰かに殺ってもらえるなら、その方が好都合だ。
「カジキパイセンの仇を取っていただけませんか? 人間に殺され、陸に運ばれているのです」
「喰うてええの?」
「勿論です。あのジジイを食い殺してやってください」
「いや、カジキの方。もう死んどるんやろ?」
「えっ?」
ダメだコイツ。楽に食えるならそっちの方がいいというタイプだ。
「ダメなら君を食うけど。あと君、ぶっちゃけ魚じゃないよね?」
「心は魚です。海が大好きです」
「卵から生まれん奴は、信用ならんねん。あと君ら、時々サメの子供を食べたりしとるやろ?」
「そ……そんなことしてませんよう」
「ホンマに?」
「ホンマですよ。それにサメさんの中にだって、卵を産まない方々は沢山いるじゃないですか!」
「えっ、そうなん?」
本当は美味しく頂いていたが、スナメリは話をそらして、しらばっくれた。
「まあええわ。でも君ら、寄ってたかって女子をレイプしよるやろ? 仲間内で散々回した挙句、ヤリ捨てしとるらしいやん」
「えっ?」
「中には人間まで襲う変態もおるって……。ボク、知っとるんよ。何度も相談受けたから」
スナメリは焦った。実は二日前も、悪い仲間たちとフグ毒を決めながら、朝まで乱交三昧のつもりだったのだ。ハイになってるところを全力さんに見つかって、オールで撃沈されたのである。しかし、それをここで認めたら、きっと喰われてしまうだろう。
そうだ! 全部、マイルカのせいにしてしまえ。都合の悪いことは全部、白黒の奴らに押し付けるのが、俺たちの
「ぷるぷる。僕ら悪いマイルカじゃないよう。ネズミイルカだよう」
「そのぷるぷるってなんやねん! こっちは獲物を見失って、イライラしとるんじゃ! 今ここでわしに食われるか、船の場所を教えるかどっちかにせえ!」
「先輩こっちです」
スナメリは豹変した。想定とはちょっと違うが、獲物を奪われそうになれば、あのジジイはコイツと戦おうとするだろう。つまり奴は更に体力を消耗する。倒し方はそれから考えよう。
「でも、先輩。あのジジイ結構強いんで、気を付けてくださいね」
「大丈夫、大丈夫。カジキ喰うたら直ぐに帰るから」
「わかりました。じゃあ、先輩が食い終わるまで、他のサメに場所を聞かれてもすっとぼけてますね」
「なに、スナちゃん。意外と話分かるやん」
「当然ですよ。アオザメさんあっての海の平和ですから」
「さっきは脅してごめんね。まあガセだったら、本当に君を喰うけどね」
それから数十分後。イルカに導かれたアオザメが、全力さんを襲った。恐れを知らず、望むものは全て手に入れるサメだ。全力さんはサメが近づくのを監視しながら、銛を用意してロープをしっかり結びつけた。
アオザメの閉じて重なった唇の内側には、八列の歯が鉤爪のようにに反り返って並んでいる。それは一般的なサメのピラミッド型の歯よりも更に厄介だった。歯の両側はカミソリのように鋭く、あっという間に大量の肉を奪われてしまうのだ。
「良い事は長続きしないもんやなぁ……」
海の中の全ての魚を食い尽くすために造られた魚だ。速さの面でも強さの面でも、敵はいない。そのサメが今、カジキの新鮮な匂いを嗅ぎつけて速度を上げた。青い背びれが水を切る。
「まあええわ。やるだけやったろ。来てみい、このクソ野郎め!」
全力さんの心は、サメを撃退する決意にみなぎっていた。襲ってくるのは避けられないが、倒すことは出来るはずだ。勿論、本当のクソ野郎はイルカのスナメリなのだが、全力さんはそんなこと知る由もない。
サメは素早く船尾に近づいた。サメの歯が音を鳴らして、魚の尾に近い部位にめり込む。サメは水面から頭を出し、背中まであらわした。大魚の肉が引き裂かれる音が聞こえるのと同時に、全力さんはサメの頭に銛を打ち下ろした。
「地獄に落ちろ!」
サメの両目を結ぶ線と、鼻から背へまっすぐ伸びる線が交差する一点に銛が突き刺さる。勿論、実際にそんな線があるわけではない。あるのはただ、頑丈で尖った青い頭と、大きな目玉と、全てを飲み込んでしまう顎だけだ。
だがその奥には脳みそがあり、全力さんは見事な銛さばきでその急所を突いたのだった。サメの胴体が回転した。
「アレ? もしかして、僕死んでる?」
その目には既に生気が無かった。サメはその場で暴れまわり、引き出されたロープが体をぐるぐる巻きにした。サメの体は、自分が死んだ事実を受け入れられないようだった。サメは仰向けになり、尾をばたつかせ、モーターボートのように水をかきわけて進んだ。
尾に打たれた水が白く跳ね、その胴体が四分の三ほども水面から飛び出すと、ロープが張りつめ、ぶつりと切れた。しばらくの間、サメは波間に横たわっていた。全力さんは、それをじっと見守っていた。
「四十ポンドはやられたなぁ」
銛もロープもみんな取られた。銛を取り返しに行きたかったが、巨大な魚をくくりつけた船は、オールを掻いたくらいではびくともしない。泳いで取りに行く気力もなかった。傷から流れ出た血に惹かれて、じきに別のサメもやって来るだろう。
「あんなに大きい
サメはゆっくりと沈んでいった。全力さんはもう、魚を見ていたくなかった。魚が噛み付かれた時、全力さんは自分自身が噛み付かれたように感じた。
「良い事は長続きしないもんやなぁ……」
全力さんは再び独り言ちた。これが夢なら良かった。こいつを引っ掛けることもなく、ベッドで新聞紙の上に一人で寝ていれば良かったのかもしれない。
全力さんは、夢の中で見たユキとの約束を思い返していた。
「大丈夫、帰れるわ」
「ホンマに?」
「帰ってくれないと、私も困るの。だからあの魚を打ち倒しなさい」
「ワシを魚との戦いに勝った。でも、それを村に持って帰れんかったら、約束はどうなるんやろ?」
勝負は間違いなく全力さんの勝ちだった。もしかしたら、止めを刺す必要すらなかったのかもしれない。罰が当たったのかもしれないと、全力さんは思った。今の全力さんには銛すら無い。
デントゥーソは残酷で有能だ。頭も良い。
「だが人間は、負けるように造られてはおらん。打ち砕かれるこたぁあっても、負けるこたぁないんじゃ!」
考えるな、全力さん。決めた通りに進めばいい。
サメが来たら来たで、それはその時のことだ。
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