第十六話「勝利」
残された全ての力と、とうに失った誇りを掻き集め、全力さんは魚と戦い続けた。魚は船のほうに引き寄せられ、全力さんの傍をゆっくり泳ぐ。船べりの板にくちばしがふれそうなほど近づいている。
魚は紫色の縞を見せ、水の中で果てしなく広がりながら、船の脇を通り過ぎようとする。全力さんはロープを手放し、それを足で踏みつけた。
「長かったな、兄弟。でももうこれで仕舞いや」
全力さんは
魚は、死を孕んで生命を輝かせた。水面から高く跳ね上がり、その大きな体と力の美しさを、余さず見せつける。船に乗る全力さんよりも高く、まるで宙に浮かんでいるように見えた。
魚は激しい音を立てて水に落ち、全力さんにしぶきを浴びせた。
「ようやく終わったわ……」
全力さんは眩暈を覚えた。胸がムカムカするし、目もよく見えない。それでも全力さんは、銛のロープの絡みを取り、擦りむけた手でそれを少しずつ送り出した。
視界がはっきりしてくると、魚は船の傍で銀色の腹を出して仰向けになっていた。銛は魚の体に斜めに突き刺さり、その心臓から流れる血は海を赤く染めていた。一マイル以上の深さの青い海を背景として、魚群のような暗い塊になっていた血は、やがて雲のように広がっていった。
魚は静かに銀色に輝いて、波間に揺られている。
「わしはオワコンの年寄りやった。だが、兄弟分の魚を殺して、その汚名は返上した。残りは雑用や」
全力さんは舳先の板に寄りかかりながらそう言った。ロープで輪を作り、魚を船べりに括りつける。魚を乗せたら船に水が入ってしまうからだ。水をかき出したところで、この船では奴を運ぶのは無理だろう。
全力さんは魚を船に寄せ、マストを立てて帆を張った。銛に繋がったロープを舳先の棒から外して、エラから顎へと通し、剣のようなくちばしに一回巻いた。それから反対側のエラに通して更にくちばしに巻き、ロープの端と端を結び合わせて舳先の棒に繋いだ。
全力さんはロープを切り、尻尾のほうにも輪をかけるために船尾に移動した。
「さあ、コイツをもって家に帰ろう」
ずっとこの魚を見ていたいなあ、と全力さんは思った。触って、その感触を確かめたい。この魚は全力さんの人生の証だ。全力さんはこの魚の心臓まで感じた。刺さった銛を押し込んだ時に。
「わしゃあ一旦、村に戻らなきゃあかん。アケミともちゃんとお別れせんといけんからな」
そういって、全力さんは一口、水を飲んだ。
「アケミはええ子や。わしが感じたような思いを、あの子にさせる訳には行かん」
全力さんは空を見上げ、太陽をしっかり観察した。正午を過ぎてそれほども経っていないようだった。貿易風も吹いている。ロープは全て駄目になってしまったが、これからの全力さんには必要のないものだ。
全力さんは魚のほうへ船を漕いだ。魚の真横に船を並べ、舳先をその頭に寄せてみたが、全力さんはその大きさを信じられなかった。元々、紫色と銀色だった魚の体は、いまや銀一色に変わっている。
縞模様は尾びれと同じ薄紫色だった。その縞は、指を広げた人間の手の幅よりも広かった。その眼は潜望鏡の反射鏡のように、何が映っているのか分からなくなっていた。
「奴を殺すには他の方法は無かった」
水を飲んでから、全力さんは少し調子が良くなっていた。
気を失う心配はもう無いし、頭もはっきりしている。
丸のままで千五百ポンドはあるなぁ。いや、もっとかもしれん。捌いて三分の二の重さになるとして、一ポンドあたり三十セントならいくらになるやろ?
「いや、もう金なんか要らんやんか。元の世界に帰るんやから」
全力さんは笑った。
「売れたら全部アケミにやろ。今までさんざん世話になって来たしな。この魚を見たら、アケミはきっと大喜びする。わしはダメな師匠やったが、アケミは立派に育った。結果オーライや」
ワシが居なくなったら、アイツは泣くやろな。
もしかしたら、既に泣いとるかもしれん。
全力さんは考えた。男が泣いていいのは、財布を落とした時と、仲間を失った時だけだ。親なんか別に大したことない。子供は親を選べないのだから。
「自分の意志で選び取ったモノだけに価値があるんや。それがどんなに素晴らしいものだろうと、他人から与えられたものに価値はない」
全力さんが村の皆からオワコン扱いされても、アケミは全力さんの力を一度だって疑わなかった。全力さん自身もそうだ。何度も失敗を重ねてきたけれど、選び取ったモノを間違いだと思ったことなど一度もない。
「わしはえっちゃんと、アケミを選んだ。えっちゃんはいなくなったし、金ものうなったけど、この魚とアケミは残った。まあ、ええ人生やろ」
魚のロープは、船尾にも腰掛梁にも結ばれた。魚はあまりに大きく、この船より大きな船を横に括りつけたようだった。全力さんは、短く切ったロープで魚の下顎とくちばしを縛った。口を閉じさせておいたほうが、船が滑らかに進むからだ。
全力さんは、流れていくホンダワラの黄色い塊を
瓶の中の水はあと二口ほど残っていた。全力さんはエビをすべて食べてしまった後で、その水を一口の半分だけ飲んだ。
「これで栄養補給も万全や!
重荷のわりに、船はよく進む。全力さんは舵棒を脇に挟んで操舵を行っていた。魚はすぐそこに見える。自分の手を見て、船尾に寄りかかる背中の感触を意識すれば、これが夢ではなく本当に起きた事だと理解できた。
闘いの終盤、あまりにも苦しかった時、これは夢かもしれないと思った。魚が水から跳ね上がり、落下する前に空中で静止した時には、とうとう頭がおかしくなってしまったと感じた。その時は目がよく見えなかったのだ。
今はもう分かっている。魚はそこにいるし、両手も背中も夢じゃない。手の傷はすぐに治る。手から出る血はもう出し切ったから、あとは塩水が治してくれるだろう。この海の暗い色の水は、何よりも効く薬だ。
全力さんがすべきなのは、頭をはっきりさせておくことだった。両手は仕事を終えたし、船の進みは快調である。魚は口を閉じ、船と魚は兄弟のように進んで行る。
「奴がわしを運んどるのか、それとも、わしが奴を運んどるのかわからんなあ。後ろにおる奴をわしが引っ張っとる状況なら、疑う余地は無いけれども」
しかし、全力さんと魚は、横並びに結ばれて一緒に進んでいた。
「こんながそがいしたいなら、それでもええ。わしは頭でこんなに勝っただけじゃし、お互いに悪意を持ってはおらなんだ」
全力さんの船は順調に進んだ。全力さんは手を塩水に浸し、しっかりした頭を保つよう努めた。空高く積雲が浮かび、その上には巻雲がたくさん出ていたから、風は一晩中やまないと分かった。
全力さんは、たびたび魚のほうを見て、それが現実であることを何度も嬉しそうに確かめていた。
第一章「人間になった全力さん」編 《おしまい》
第二章「猫に戻る全力さん」編に続きます
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