第十五話「眩暈」
「さっきの夢が、どこまで本当かは分からん。海に生きて、兄弟を殺す。それだけで十分じゃ!」
全力さんは左手でトビウオつまんで口に入れ、しっかりと骨を噛んで、尻尾まで丸ごと食べた。こんなに栄養のある魚はそうはいない。少なくとも、今の全力さんには必要な魚だ。今さら栄養を取っても遅すぎるかもしれないが、やるべきことは全部やるのだ。
「ずいぶん大きな円だな。だが確かに回っとる」
全力さんが海に出てから三度目の日の出を迎えた頃、魚の軌跡が円を描き始めた。ロープの引きがわずかに緩むのを感じ、全力さんは右手で静かに引き始めた。ロープはやはり強く張っていたが、徐々に手繰れるようになってきていた。
全力さんは両手を左右に振り、体と脚も使って、できる限り引こうとした。老いた脚と肩が、その往復運動の軸になっていた。
「円の一番遠いところに差し掛かったようじゃ」
ロープは少しも引けなくなった。そのまま握っていると、日差しの中でロープから水滴が跳ねるのが見えた。今度は、ロープが出て行き始めた。全力さんは膝をつき、暗い水の中へとロープが引き込まれていくのを惜しんだ。
「できる限り引いとこ。引いとけば、円はだんだん小さくなる。いずれには奴の姿が見えるはずや」
魚はゆっくりと円を描き続けた。二時間後には、全力さんは汗でびしょ濡れになり、すっかり疲れ切っていた。しかし円はずいぶん小さくなっていたし、ロープの傾きからすると魚が少しずつ浮上してきているのも確かだった。
一時間前から、全力さんの眼前には黒い斑点が浮かんでいた。飛蚊症だ。汗の塩分が目に入り、まぶたや額の傷にも沁みた。だが全力さんは、視界の斑点など恐れてはいなかった。ロープを引く時の緊張にはつきものだからだ。しかし、眩暈を覚え、ふらついたことが二度もあった。こちらの方は気がかりだ。
「あの魚を前に、弱気になって死ぬわけにはいかんじゃない」
その時、両手でつかんでいたロープに、突然ぐっと強い引きが来た。激しく重く強烈な引きだ。奴のあの槍が、針金のハリスを叩いているのだ。
「当然や。そうせざるをえまい」
だが、その勢いで跳ねられるのは困るなぁ。空気を求めて跳ねてまうんやろが、跳ねるたびに鉤が引っかかった口の傷が開いてしまう。そしたら、鉤を振り捨てられてまうかもしれん。
「魚よ、跳ねるな。跳ねるなよ」
魚は何度もハリスを叩いた。魚が頭を振るたびに、全力さんは少しずつロープを送り出してやった。しばらくすると、魚はハリスを叩くのを諦め、再びゆっくりと周回を始めた。
奴の痛みをこれ以上増してはいけん。わしは痛みに耐えられるが、奴は我慢できず暴れ出すかもしれんのや。苦しめるのは、わしの本意やない。
全力さんは少しずつロープを手繰った。再び眩暈に襲われた。全力さんは左手で海水をすくい、頭からかける。更にもう一度かけてから、首の後ろをさすった。
「人間はえらいなあ……」
全力さんは言った。
「でも、奴はもうじき上がってくる。わしはやれるで。やるしかないんや!」
全力さんは舳先に膝をつき、先ほどと同様に背中にロープを回した。奴が円を描いて遠ざかっていくうちは、わしは休んでおこう。そして再び近づいてきた時には、いよいよ仕事だ。全力さんはそう決めた。
本音を言えば、魚には勝手に周回させておき、舳先で休んでいたかった。しかし、魚が大きく回って船に近づいてきていることをロープが示すと、全力さんは立ち上がり、自らの体を軸として、機織りのようにロープを引き始めるのだ。全力さんはロープを手繰れるだけ手繰った。今までこれほど疲れたことはなかった。
奴がまた遠ざかり始めたら、休むんや。気分はずいぶん良くなった。
あと二周か三周したら、こちらの勝ちや。
貿易風が吹いてきた。この晴天の風は、陸に帰るために無くてはならない風である。全力さんの麦わら帽子は、頭の後ろのほうへずり落ちていた。魚がまた方向を変え、ロープの引きが変わると、全力さんは疲れて舳先に座り込んでしまった。
「魚よ、せいぜい頑張りや。今度、近づいてきた時こそ、仕留めてやるけんの」
三周目の円を描き終わった時、全力さんは初めて魚の姿を目にした。暗い影として姿を現した魚は、信じられないほどの長い時間をかけて、船の下を通り過ぎたのだ。
魚は、船から数メートルしか離れていないあたりで海面近くまで浮かんできた。全力さんには、その尾ヒレが水から出ているのが見えた。それは後ろに傾斜した形で、大鎌の刃よりも高くそびえ、暗い青色の海の上で薄紫に輝いていた。
「まさか、これほどとはな……」
魚が海面すれすれを泳いだので、全力さんはその巨大な胴体と、紫色の縞模様とを確認することができた。背びれは畳まれ、大きな胸びれは左右に広げられていた。全力さんは汗をかいていた。太陽の暑さだけが理由ではなかった。
ゆるやかなターンを経て魚が戻ってくるたびに、全力さんはロープを手繰っていった。あと二周もすれば、
しっかりしろ、全力さん!
今まで漁の途中でぶっ倒れた事とかないやろ!
次の周回で、魚は水面から背を出した。だが、船からは少し遠い。その次の周回でもまだ遠かったが、魚の位置はより高くなっていた。
銛の準備はずいぶん前に終わっていた。銛に付いた軽いロープは丸籠に収められ、ロープの終端は舳先の繋ぎ柱にしっかりと結んである。
「もっとロープを手繰れば、船べりに寄せられる」
円を描きながら、魚が近づいてきた。美しく落ち着いた様子で、大きな尾びれだけが動いている。全力さんは魚をそばへ寄せようと全力で引いた。一瞬、魚が傾いた。しかしすぐ持ち直し、また周回を始めた。
「ようやく、奴を動かした。わしが動かしたんや」
魚よ。われは、どうあがいても死ぬるしかないんや。
それとも、われが、わしを殺すというんか?
「それじゃどうにもならんな」
また眩暈がした。全力さんは全力で引き続け、大魚に食らいついていた。もう、声を出すのも辛いほど口の中が乾いていたが、水に手を伸ばすこともできない。魚は少し揺らいだ後、また体を立て直して泳ぎ、遠ざかって行った。
全力さんは、数時間前に見た夢を信じる気持ちになっていた。もうそれでしか、気力を保つことが出来なかった。今度こそ必ず、奴を船の脇まで引き寄せる。このうえ何度も周回されたら耐えられない。
「いや、そんなことはないぞ」
全力さんは自分に言った。
「いくらだって相手をしたる。この魚を引き上げて、元の世界に帰るんや!」
次の一周で、勝負は決まるだろう。そしたら全力さんは、元の世界へ帰れる。しかし、魚はまた元通りに立ち直り、ゆっくり遠ざかって行った。
われはわしを殺す気やろ? 確かにわれにゃあ、その資格がある。わしは今までに、われほど美しゅうて、高貴な奴を見たことがない。兄弟よ、わしを殺すがええ。どちらがどちらを殺したって、別に構わんのや。
また頭が鈍ってきたなと、全力さんは思った。頭は明晰に保っておかなければならない。明晰な頭で、人間らしく苦しむべきだ。あるいは猫らしく。全力さんはそう考えた。
「頭よ、しっかりしろ」
自分にもほとんど聞こえない声で言った。
「しっかりしろ」
全力さんはもう一度試みたが、その度に気を失いそうになるのだった。魚は立ち直り、水面から出した大きな尾を揺らして、またゆっくりと遠ざかっていく。
更に二度、同じことが起きた。全力さんは、周回の度に気を失いかけた。両手はもうぼろぼろで、目には途切れ途切れの光景しか見えない。
「もう一度や」
何度やっても結果は同じだった。
それならば、と全力さんは思ったが、動く前から眩暈がしていた。
「分からない。だが、もう一度やるぞ」
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