第十四話「この世界に生きる意味」

「とにかく一度、あの村に帰りなさい」

「なして? もう少しで、あの大物を釣り上げられそうなんよ」

「もう二日も帰ってないでしょ? 貴方は今、遭難したものと見なされてるわ。沿岸警備隊まで出ているのよ」

「本当に?」

「ええ。自殺しちゃったんじゃないか? って言ってる人までいるくらいよ」

「わしは釣りが大好きや。幾ら一五〇連敗したからって、好きな事やって死ぬるわけがないやんか」


 全力さんは合百の借金返すため、ウミガメを殺しながら、三年も耐え忍んだ男だ。そんなやわな精神はしていない。


「普通の人はそうは考えないのよ。アケミだって心配してるわ」

「そんなこと言われてもなあ……」


 アケミの事は気になるが、目の前の大物を無視して、村に帰る訳には行かなかった。


「わしが帰る場所は、村やない。『死者の書のしもべ』や」

「本当にそう思ってる?」

「勿論や! ひーちゃんやヴァルダが、首をなごーして待っとる。わしにはわかるんよ。これでも元々、使い魔やからね」


 ヴァルダはあの箱を、『人生を変える箱』だと言っていた。全力さんにはその意味が良く分からず、好奇心で箱を開けてしまったのだ。全力さんの人生は確かに変わった。人間として苦労する代わりに、ひーちゃんとちゅーる以外にも大切なものが沢山出来た。


「わしはようやっと気づいた。えっちゃんに捨てられたのも、合百に出会ったのも、アケミの名付け親になったことにも、全部ちゃんと意味があったんや」

「あの魚を斃すことも?」


「勿論や。アイツはわしの兄弟や。兄弟を殺るっちゅうことは、わしらの世界じゃ、絶対に許されへん。ご法度や」


 全力さんは力強く言った。


「つまり殺した時点で、この世界とは絶縁することになる。そうじゃろ?」

「ようやく、気付いたみたいね」

「おおかた、今回の150連敗もアンタの仕業やろ? アイツを斃すためには、ごっつうツキを貯めなあかんからな」

「それについてはコメントをさし控えるわ。ところで、この世界を去るのに未練はないの?」

「ない。わしはこの世界で、一番大切なものを手に入れた。愛さないかんもんは全て愛した。だから、もうええ」


 そう。えっちゃんに捨てられたことも、合百で借金を抱えたことも、そして、アケミの名付け親になったことも、全力さんの覚醒のためには必要な事だったのだ。


「どういうこと?」


「優しくされるから好きなんやない。捨てられても好きだから、好きなんや。金をくれるから好きなんやない。奪われても止められないから、好きなんや。自分にとって都合がいいから好きなのは、好きでも何でもない」


「えっちゃんと合百の事かしらね? じゃあ、アケミは?」

「簡単なこっちゃ。わしがなんぼ魚を釣り上げようと、合百で稼ごうと、嬉しいのはわしだけの事や。お裾分けをして感謝されようと、それは上辺だけの事や。そうやろ?」

「そうだね」


「だけど、わしがアケミをまっとうな人間に育てたら、アイツらはわしを心の底から尊敬する。アイツは博打うちやったけど、最後にええものを残したとゆうてくれる。鉄板や。全財産賭けてもええ」


「えっちゃんは、その事に気づかせるために、わしの前から消えたんや。アケミを残してな。えっちゃんだけが、最初から本当の事をゆうとった。もっと早くに気付いとったら、わしは本当にアケミの親になれたかもしれん」


『合百は、最後は負けるように出来てるんです。女の子は貴方が好きなんじゃなくて、貴方のお金が好きなんです。いい時は、決して長くは続きません。貴方には釣りの才能があるんだから、ちゃんと真面目にやりなさい』


「まあ、気づかんかったわしがボンクラだっただけや」

「気づいてたら、貴方はきっと元の世界に戻ろうとは思わなかったわ。だから、これでよかったのよ」


「そうかもしれんな。人生に意味のない事なんてないし、100%マイナスの事もない。その意味に気づく奴と、気づかん奴がおるだけや」



 右の拳が引っ張られて顔にぶち当たり、全力さんは目覚めた。ロープは右手を焼く勢いで走り出る。左手は何も感じていない。右手に全力を込めてロープを止めようとしたが、勢いは抑えられない。


 やっと左手がロープをつかんだ。体重を後ろにかけると、今度はロープが背中と左手を焼く。引っ張る力の全てがかかり、左手の皮膚が少し裂けた。


「いったー! これだから、人間は嫌やねん!」


 振り返って見ると、巻いてあるロープがするすると流れ出ている。その時、魚が水面を爆発させるように飛び上がり、また派手に落下した。


 魚は何度もジャンプを繰り返す。ロープは走り出ていく。全力さんは切れる寸前までロープを押さえ、いったん緩めてはまた切れる寸前まで押さえる。それでも船は勢いよく引きずられる。全力さんは舳先に引き倒され、顔はトビウオの切り身に押し付けられていた。


「えろう、元気になったやないか? でも回復しとるのは、こっちも同じや。お前を殺す意味も見つかったしな!」


 魚が跳ねる姿は見えない。海面が破裂する音と、派手に飛び込む音が聞こえるだけだ。ロープのスピードが両手をひどく傷つけていたが、こんなことはよくある事だ。 


「この時を待っとったんや。ロープは弁償してもらうぞ、必ずな」


 全力さんはロープの力を皮膚の硬い部分で受け、それが手のひらに滑り込んだり指を切ったりしないよう努めた。右手は無事だ。ケガをしたとはいえ、左手も寝る前よりはいい。


「アケミがここにおったら、ロープを濡らしとってくれたろうになあ。アケミがおったら。アケミがここにおってくれたら……」


 全力さんは思った。


「いや、あの魚はわし一人で倒すんじゃ。妄想に頼るのももうやめじゃ! じゃなきゃわしは、皆のところに戻れへん!」


 ロープはみるみる出て行ったが、その勢いは次第に弱まってきた。全力さんは、魚に少しずつロープを引き出させてやった。全力さんは板から頭を上げ、頬で押し潰していたトビウオの切り身から顔を離した。膝をつき、そしてゆっくりと立ち上がる。ロープは持って行かれるが、そのスピードはだんだん落ちている。


 全力さんは、巻いたロープが控えているところまで後ずさりし、目で見る代わりに足で触って確認した。ロープはまだたっぷりある。新たに伸びたロープが水の中で得る抵抗は、全て魚の重荷になるはずだ。


「そうや!」


 全力さんは気づいた。奴はもう十回以上ジャンプした。背中の浮袋は空気で一杯になっているはずである。これで、引き上げられないほど深く沈んでしまうことはなくなった。じきにグルグル回り始めるだろう。


 そしたら、わしが仕掛ける番や。しかし、なして奴は突然飛び上がったんやろう? 空腹がもう限界なんか? それとも夜の闇の中で何かに怯えたんか? 突然、恐ろしゅうなったんかもしれんな。


 だが、奴は冷静で強い魚だ。恐怖心など無さそうだし、自信に満ちているようだった。奇妙だな。


「根拠なんかのうてええ! 怖いもの知らずの自信を持てばええんや! 勝利の女神は臆病者が大嫌いなんやからな!」 


 全力さんは左手と肩を使って魚の動きを抑えつつ、しゃがんで、右手で水をすくい上げ、頬にこびりついたトビウオの魚肉を洗い落とした。顔が綺麗になると、全力さんは船べりから右手を出して海で洗った。そして、夜明け前の曙光を眺めながら、そのまま手を塩水に浸しておいた。


 魚はほぼ真東を向いている。くたびれて、潮の流れに沿って泳いでいる証拠だ。じきに周回し始めるだろう。そこからが、全力さんの本当の仕事だった。もう十分だと判断した全力さんは、右手を水から出して確かめた。


「大丈夫や。これくらいの痛みなら何とかなる」


 生傷を刺激しないよう慎重にロープをつかみ、体重を移動して、船の反対側から今度は左手を海に入れた。


「われも役立たずのわりにゃあ、そう悪うないで」


 全力さんは左手に向かってそういった。

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