第十三話「妄想のアケミ」
九月は太陽が沈むとすぐに暗くなる。
「右手はかすり傷だし、左手の引きつりも治った。ロープにもまだ余裕はある。それに、食料事情は奴よりずいぶん上やないか」
空には星が出始めていた。全力さんは星の名をあまり知らなかったが、オリオン座を何とか見つけた。じきに他の星たちもみな出てくるだろう。星々は、遠いところにいる友人たちだ。
「奴らも仲間じゃ。あの魚も……」
全力さんは、何も食べていない魚を気の毒に思った。しかしその哀れみの中でも、魚を殺すという決意だけは揺らぐことはなかった。
「本気でやりおうとるからこそ、殺すんじゃ。しかし、奴を食うだけの価値がある人間はおるんじゃろうか?」
いない。勿論、いない。あの立派な尊厳を誇る魚を、食う価値のある人間など一人もいるはずがないのだ。それでも全力さんは、あの魚を殺さねばならない。
全力さんは、オールを船の足枷にすることを考えはじめた。抵抗が増えれば奴は疲れる。だが、船が軽快さを失えば、ロープを出し切って奴を逃がすかもしれない。
「失敗のことやら考えんな! 上手ういけば、奴の体力をめっさ削れる。まずは、トビウオを多少は腹に入れておこ。力をつけるためにな」
もう一時間休んで、奴がしっかり落ち着いているのを確認してから、仕事をしに船尾に戻る。全力さんはそう決めた。
「本当に大した魚や。鉤は口の端に引っかかっとったが、堅く口を閉じたままやった」
鉤はたいした苦痛ではない。空腹の苦痛と、自分が何と戦っているのか分からない苦痛。魚は全力さんとではなく、その二つの苦痛と戦っていた。
一方の全力さんはしばらく休んだ。月の出も遅い季節だから、時間を知る術はない。比較的楽をしただけで、本当に休んではいなかった。まだ肩で魚の引きを支え続けているのだ。
全力さんは舳先の船べりに左手をついて、魚に抵抗する力を、できる限り船に任せようとしていた。でなければ、消耗戦で負ける。するとまた、幻覚のアケミが全力さんの前に現れた。
「こんばんは、全力さん。ずいぶん苦戦しているようだね」
「ああ、丸二日、寝取らんのよ。
「ちがうよ。半日と、一晩と、更にもう一日だ」
アケミはそう言って笑った。
もはや全力さんは、なんの違和感も感じてなかった。
「じゃあいっそ、ロープを船に固定してしまおうか? そしたら眠れる」
「でもそれじゃ、魚にロープを切られてしまうよ」
「そうやな」
「辛くても、全力さんの体でロープの引きを緩和しておいて。いつでも両手でロープを送ってやれるようにしておかなきゃ」
全力さんが、目の前のアケミが幻覚であることはちゃんと自覚していた。限界に近いメンタルを癒すために、気を付けなければならない事をアケミの口を借りて言わせているのだ。
奴が落ち着いて静かにしとるうちに、ちいとでも眠らにゃあダメやな。眠らんでいると、頭が鈍ってくる。いや、もうだいぶ鈍っとるかな?
「眠る事ばかりを考えているね」
「ああ、これは堕落やない。大変な時ほど、眠るのを忘れたらダメや」
ちゃんと眠って、ロープのほうは簡単で確実な方法を何とか考えなければならない。星も眠るし、月も太陽も眠る。海だって、凪の時には眠っているのだ。
「眠るなら、オールを船の足枷にしないと。魚の体力を削るんだろ?」
「ああ、そうやったな」
魚を強く引いてしまわないように注意しながら、手と膝をついて、全力さんは船尾のほうへ移動し始めた。
「奴も半分眠っとるのかもしれん。奴を休ませとうないな」
「トビウオを食べるのも忘れないでね」
「そうや、それもそうやった」
全力さんは体の向きを変え、二匹のトビウオの腸を抜いた。そしてナイフを鞘に戻し、ゆっくりと舳先に戻った。全力さんの背中はロープの重みで曲がっている。全力さんは、船から身を乗り出して海水でトビウオを洗いながら、水の抵抗の強さによって速度を測った。
「どうだい?」
「ああ、流れの勢いはかなり弱まっとる」
「疲れてるのかな? それとも、ただ休んでるだけ?」
「わからん……。考えても答えの出んことは、考えんのがわしの主義じゃ」
「そうだね」
「休んどるなら今がチャンスや。わしもトビウオを食うて、ちいと眠ろう」
星空の下、深まってゆく夜の冷え込みの中で、全力さんは腸抜きをして頭を切り落としたトビウオを、一匹だけ食べた。
「ああ……。もうちいと知恵があれば、昼の間に舳先に水をまいて乾かして、塩が取れたのになぁ」
「ダメだよ、全力さん。思考がネガティブになってるよ。トビウオが船に飛び込んできただけでも、ラッキーだと思わなきゃ」
「そうやな」
東の空が曇り始めた。知っている星が、一つ、また一つと消えていく。雲でできた大峡谷に、船が突っ込んでいくかのようだった。風はもうやんでいた。
「明後日くらいには、天気が悪うなりそうやなあ……」
「でも、今日明日の問題じゃない」
「ああ。魚が落ち着いとるうちに、わしは寝る支度じゃ。何かあったら起こしてくれるか?」
「そうしてあげたいのは山々だけど、僕は全力さんの妄想だしね。忘れちゃいけない事を、注意してあげるのが精いっぱいだ」
「こんなにハッキリ見えとんのになあ……」
全力さんはロープを右手でしっかり握り、右手の上に太腿を乗せて押さえた。そして、全体重を舳先の板にかける。それから、肩にまわしたロープを少し下にずらし、左手でそれを握った。
こうしておけば、右手で押さえていられる。もし右手が緩んでも、ロープが動けば左手が気づくはずだ。右手には苦労をかける。だがこいつは、酷使されることに慣れているはずだ。
「二十分でも三十分でも、眠れればありがたいなあ」
「ガチ寝しちゃダメだよ」
全力さんは上体を前に倒して体重を右手の上に乗せ、自分の体でロープを押さえた。そして、あっという間に眠りに落ちた。
眠りは浅いので次々と夢を見る。最初に出て来たのはイルカの大群だった。発情期のイルカの群れが、八マイルか十マイルほども広がっていた。イルカたちは高く跳ね、水面にできた穴にまた潜っていく。幸せそうだ。
「またお前らかー!」
全力さんは吐き捨てた。
「ふざけんな! こっちは今、徹夜してまで魚と戦っとるねん。そんなに子孫を増やしたいなら、どっかで卵でも産んでろ!」
リアルではオールでぶっ叩くしかなかったが、これは全力さんの夢なので、幾らでも好きなように出来る。全力さんは両手に機関銃を持ち、しっかりと構えた。
「死にさらせ! 哺乳類の風上にもおけん、
イルカに大群に向かって、全力さんは何のためらいもなく機関銃を乱射した。イルカたちは断末魔の声を上げながら、次々と海の底に沈んでいく。辺り一面が、血の赤に染まった。Cシェパードもドン引きするレベルだ。
「ざまあみろ。もう二度と出てくるんやないどー!」
全力さんが勝ち誇った顔でそういうと、目が覚めた。
当然ながら機関銃はなかった。
次の夢では、全力さんは村にいて、自分のベッドに寝ていた。強い北風が吹いてとても寒く、枕代わりにしている右腕がしびれていた。無事に村に戻ったことに安心し、右腕を動かして楽になろうと思った瞬間、目が覚めた。右腕は本当に痺れていたし、北風もビュービュー吹いていた。
「夢と現実は、普通無関係なもんや。これじゃ、夢の体をなしてないやろ?」
酷い夢もあるものだと、全力さんは思った。
その次の夢には、黄色く広い砂浜が出てきた。全力さんは、その砂浜に何となく見覚えがあった。夜明けの暗い浜に、まだ猫だった頃の全力さんが下りてくる。その後ろに、全力さんそっくりの三毛猫が更に続いた。全力さんは、舳先に顎を乗せてそれを見ていた。
「この夢、確か前にも見たな。いつやったっけ?」
「お久しぶりね」
ヴァルダに良く似た制服を着た女の子が、いつの間にか、また傍に立っていた。
「やっぱアンタか。確か、ユキとか言ったな? 言われた通り、今は魚と戦っとるで。奴に勝ったら、元の世界に帰してもらえるんやろうな?」
ユキは答えた。
「遠足は、お家に帰るまでが遠足です」
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