第十二話「死神の伝説」
「ひとまず、こんな感じじゃろ。考えてみれば奴は、わしの仕掛けに食いついてから何も食うとらん。奴の大きさなら、食物もめっさ要るはずや」
全力さんはビンナガを一匹食べた。今晩はトビウオも食べるだろう。マグロと違って手間もかからない。一五〇連敗の甲斐あってか、ツキは完全に全力さんに来ていた。
「魚よ、気分はどうや? わしは随分ええで。左手も良うなったし、食いもんも自分から飛び込んできた。さあ、船を曳くがええ」
しかし、心から気分が良いというわけではなかった。ロープを回した背中の痛みは、もはや痛みを通り越してほとんど無感覚になっていた。危うい状態だ。
「こんなの、えっちゃんが突然おらんようなって、一人で暮らしとった頃に比べりゃなんてことないわ」
エサは誰かがくれるものと思っていた全力さんには、あの数年間は本当に辛かった。全力さんは、憎くもないウミガメを殺しながら借金を返し、そこらに落ちてる海藻と、砂浜で取れるアサリと、タダで貰えるサメの肝油だけを取って飢えをしのいでいたのだった。
「わしは元々猫だから、何とか飲めたけど、あれは人間の飲むもんやないなあ……」
全力さんは、「相場の借金は相場で返すんや!」と思いながら、毎日毎日、方眼紙にチャートを付けていた。時折見つける、鳥やウミガメの卵だけが全力さんの贅沢だった。卵の味を覚えたのは、人間になって良かったと思う数少ないことの一つだ。
日が暮れると全力さんは、自分に自信をつけようとして、数年ぶりに合百をやった時の事を思い出した。当時は物凄い強気相場で、皆が総楽観だった。だが、三年間もの間、毎日チャートを描き続けていた全力さんは、その強気相場がそろそろ限界に近いことに気づいていた。
当時の合百は、今よりも遥かにギャンブル性が高く、予想から一ポイント以内の誤差しか許されなかった。当選者は原則として一人切りで、全員外した場合の賭け金は、次回に持ち越しになる。
その週のダウは高値圏での乱高下で、五日連続で的中者が出ていなかった。掛け金の持越しは六万ドルにもなり、その持越しの六万ドルを求めて、週明け月曜日の賭けは飛ぶように売れていた。
全力さんは、相場が持たない事には自信があった。問題は暴落の幅と、合百に参加するための賭け金である。借金取りはウミガメ獲りの稼ぎをほとんど持っていってしまうので、全力さんの手元には、一口十ドルの賭け札を買う金もなかった。
「アケミ、船に乗りたくないか?」
「乗りたい!」
「ワシが乗せちゃる。しかも、さらの新品や! アケミが最初の一番最初のお客さまやで!」
全力さんは、当時まだ五歳のアケミのところに行って、こういった。
「船の名前は?」
「そうやな……。えっちゃん丸っていうのはどうや?」
「なんだかピンとこないなあ」
「じゃあ、名前はお前が決めてええ。ところでな……」
「なに?」
「お前いま、幾ら持っとる?」
「お年玉が七〇ドルくらい」
「それ、全部貸せ。大丈夫、借りるだけや。直ぐに返す」
全力さんはアケミから借りた七〇ドルをもって、久しぶりに合百の行われている賭場に入った。この賭場は合百だけでなく、株取引の仲介も行っている。壁にかけられた黒板には、市場で人気の銘柄の株価が、チョークで何度も書いたり消したりされていた。
株式新聞を持った男たちが部屋を出入りし、壁際の高い椅子に座って怪しい相場情報を交換している。当時はまだ、株価を知るには町の証券会社に電話をかけるしかなかったから、最新の株価を知りたい博徒たちが、店の中に大勢たむろしていたのだった。
「よお、全力の久しぶり。借金は終わったのかい?」
「まだ全然残っとるけどな。ちょっと、小銭が出来たんでね」
この賭場のオーナーはナカノという。上手い奴の注文には提灯を付け、ボンクラの注文は市場に通さずにそのまま飲んでしまうズルい男だった。彼は、全力さんに合百を教えた張本人で、えっちゃんはこの男を毛嫌いしていた。
だが、落ちぶれた全力さんの事を見放さず、その日の場が引けた後に、新聞と方眼紙をタダでくれたのも、やはりこの男だったのだ。
「お前さんも、持越し金の六万ドル狙いだろ? うまくいくといいな」
「そうやな。週明けの予想は、どれくらい売れとる?」
「現時点で二万ドルを超えてるよ。まだ土日が丸々残ってる。当たれば、人生を変えられるぜ」
それはナカノの決め台詞だった。誰が的中しようと、彼はテラ銭で一割持っていくだけなので、別に構わないのである。何か担保があれば賭け金も貸してくれるが、今の全力さんはナイフ以外に何も持っていないので、お金は借りられない。
「それで、いくらに賭けるんだ?」
「五〇〇ドルや。それと、前後三ポイント刻みで三点ずつ、計七点。間違いなく頼むで」
そういって、全力さんはアケミから借りた七〇ドルを差し出した。
「おいおい、幾ら最近の相場が派手な動きをしてるからって、五〇〇ドル高はないよ。やめときな」
「誰が高いとゆうた? わしが賭けるのは暴落や。誤差はせいぜい2%やろ。四九〇~五一〇ドル安までで的中や」
「全力の……。お前、何を考えてる? 頭でもおかしくなったか」
そう言われるのも無理はない。当時のダウは二千五百ドルの攻防戦の真っ最中だった。もし予想が当たれば、一日で二割以上も下げる計算になる。
【△491】【△494】【△497】【△500】
【△503】【△506】【△509】
全力さんは、7つの数字が打刻されたチッカーテープを受け取った。
△はマイナスという意味だ。
「わしとアンタの仲やから教えたる。週明けは大暴落や。アンタが提灯を付けとる株、月曜の寄りで全部手じまいせえ」
「暴落?」
「ああ。寄りならまだ、なんとかなるはずや。土日のうちに説得して、上客にも全員売らせるんやな。そうせにゃ、アンタが貸してる分まで食い込むで」
「ははは……。そんときゃ、ボンクラから飲んでる分がボロ儲けになるから、平気だよ」
「まあ、信じるか信じないかは、アンタの勝手や。わしはちゃんというといたで。三年分の新聞代や」
「そうだな。久しぶりのアンタの張りだ。気を付けとくよ」
ナカノは今でも、全力さんに一目置いていた。今どきの連中は相場の借金なんかまともに返そうとはしない。人生を儚んで自殺するか、使える臓器を全て抜かれて、お魚のエサになるかのどちらかである。
だが全力さんは、ナイフ一本でその借金を返そうとしていた。食うや食わずの生活をしながら、ナカノから新聞をもらい、ただひたすらに方眼紙にチャートを引いていたのだ。
翌日、相場は相変わらず乱高下を続けた。全力さんの言葉に何だか不気味なものを感じていた彼は、何とかその間に売り抜け、常連客にも手じまいを勧めた。だが彼は、既に購入代金を飲んでるボンクラ相手には、まったく逆の事を言っていたのである。
「全然心配することないです。むしろ押し目で買い増ししませんか? 購入代金は融資しますんで」
ナカノはガンガン買いを勧めた。奴らが飛べば、ナカノの勝ちが確定する上に、実際には買ってない株の購入代金とその利息を請求することが出来るからだ。今の全力さんにとって、70ドルは大金のはずだ。これ以上、上がり目なんてあるはずがない。
その日のダウは八十七ドル高まで上げて、十時ごろに最高値を付けた。そしてそこが天井だった。それから前引け迄の一時間で下げ幅は一〇〇ドルを越え、昼休みを挟んでも、下落の勢いは止まらなかった。
最終的な下げ幅は五〇八ドル安。下落率は22.6%。大恐慌の時にすら例のない過去最高の下げだった。その下げは後に、ブラッディー・マンデーと呼ばれ、その下げを的中させた全力さんは、『死神』の異名を持つ伝説の相場師として語り継がれるようになる。
「ギリギリやったなー。危うくわしも外すところやった」
引け後、この合百は無効にすべきだと賭け手たちが言い出した。「こんな動きを、事前に予想できたはずがない」というのである。
ナカノが首を横に振る中で、全力さんは配当金の十一万ドル余りを受け取った。テラ銭の一割を納めても、九万九千ドルが手元に残った。賭場を閉めた後で、ナカノが「助かった」と言って千ドルを戻してくれた。
全力さんは、その十万ドルで借金を全部清算すると、残りのお金で新品の船と釣具を買った。そして全力さんはウミガメ獲りを辞め、漁師に戻ったのである。
三年間、ツキをため続けてよかったなあと全力さんは思った。
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