第九話「回復」

 二日目の朝が来た。明け方の薄明かりの中で、ロープはまっすぐ水中へと走っている。船は着実に移動を続けていた。やがて太陽のふちが水平線から現れ、全力さんの右肩を照らした。


「北に向こうとる」


 潮の流れは東に向いている。奴が流れに押されて、向きを変えてくれるといい。そうなれば、魚が疲れている何よりの証拠だ。だが、太陽が更に昇ると、船の進むスピードは昨晩よりむしろ増していった。


「跳ねてくれんかなあ……」


 全力さんは言った。背骨近くの浮き袋が空気で膨れてしまえば、深く潜って死ぬことはできなくなるからだ。


 奴を扱えるだけのロープは用意してあるんや。

 跳ねてくれれば、こっちの勝ちや。


 全力さんは張りを強めようとしたが、ロープは既にちぎれる寸前まで張り切っていた。あの魚が掛かってから、ほとんどずっとそうだったのだ。どんなに頑張っても、これ以上引っ張ることは出来そうもない。


「今はまだ、引かんほうがええかもな」


 全力さんは思い直した。元気なうちに跳ねると傷が広がって、鉤を振り落とされかねないからだ。日が昇ってからお互いに調子も良くなった。今はそう考えよう。


 一つだけ、好ましい徴候もあった。魚の泳ぐ水深がやや浅くなっていることを、ロープの角度が示していたのだ。ロープには黄色い海藻がたくさんまとわりついていた。魚にとっては重りが増えるだけだから、全力さんはむしろ喜んだ。


 魚よ、わしはお前を心から尊敬しとる。

 だが、わしはお前を必ず殺す。今日のうちにな。


 そうなって欲しいもんや、と全力さんは思った。


 小さな鳥が、船に向かって北のほうから飛んできた。ナキドリの一種だ。海上をかなり低く飛んでいる。ずいぶん、疲れているようだった。小鳥は船尾のほうに来て、そこで少し休んだ。それから全力さんの方に飛んできて、そのまま頭の上にとまった。全力さんの頭はもじゃもじゃしている上に、ほとんど動かないからだ。


「われは幾つや? 旅は初めてか?」


 全力さんは鳥に尋ねた。喋る全力さんを、小鳥は見つめていた。疲れ果て、足場をあらためる余裕もなかった鳥は、全力さんの頭の上で静かに揺られている。


「わしの頭はかなり丈夫や。しっかり休んでき。でも、ウンコは勘弁やで」


 鳥は何も答えなかったが、話し相手が出来たことは、全力さんの心を少し楽にした。

 

「昨晩は風も無かったのに、そがあに疲れとったらあかんよ。この先どうするん?」


 人も可哀想だが、鳥はもっと可哀想だ。海では獲物はロクに取れないし、渡りが出来なければ死ぬしかない。全力さんは、小鳥たちを狙って海にまで来る鷹のことを考えていた。


「しっかり休んで、それから陸のほうへ飛ぶんや。所詮この世は運任せ。人間も鳥も同じやろ?」


 例外は一つだけである。この地球の覇者は、ユダヤの長老でも悪魔でもなく、何にもしないのに人間に可愛がられてる猫であると、全力さんは思っていた。


「良かったら、わしの家に泊まるとええ。悪いが、帆を上げて陸まで連れてっちゃるというわけにゃいかん。いかんせん、わしにゃあ連れがおるんや」



「人間はえらいなあ……。猫に戻りたいなあ」


 猫の頃は柔らかかった全力さんの背中は、夜のうちに硬くなって、いまやひどく痛んでいた。

 

 その時、魚が突然ふらついて、全力さんは舳先へさきの方へぶっ飛ばされた。すかさずロープを送り出したから良かったものの、そうしなければ水の中に引きずり込まれていた。


 全力さんが斃れたので、びっくりして小鳥は飛び立った。小鳥が去るのを見ている余裕は、全力さんには無かった。全力さんは、自分の右手から血が流れていることに気付いた。


「ケガをしてもうたなあ。多分、奴もどこか痛かったんやろな」


 全力さんは、魚の向きを変えられないかとロープを引っ張ってみた。しかし、何も変わらなかった。全力さんは張りを安定させ、後ろに体重をかけて再びロープを肩で支えた。


「魚よ、そろそろ堪えてきたじゃろ? 本当のところ、それはわしも同じじゃ」


 全力さんはそう言って、少し笑った。あたりを見回して鳥を探したが鳥はもういなかった。長居はしなかったんやなと、全力さんは思った。



「アケミが、ここにおってくれたらなあ……」


 魚に引っ張られて手を切るなんて、わしは何をやっとるんじゃ。駆け出しでもあるまいに。きっと小鳥のことなんか考えとったせいじゃろ。そうや、力が抜けてしまわんように、ビンナガを食わにゃあ……。


 ロープを左肩に掛けかえ、慎重に膝をついて、全力さんは海水で手を洗った。しばらく海の中に手を浸して、自分の血が水中に尾を引く様子を見ながら、水の抵抗をその手に感じ続けていた。


 ようやく速度が少し落ちたようだった。もう少し手を塩水に浸しておきたいと思ったが、また魚がまた突然ふらついたりしたら堪らない。全力さんは立ち上がって、手を太陽にかざした。


「これくらいなら、全然平気や」


 ロープにこすれて、少しばかり皮膚が切れたにすぎない。しかし、手は大切な仕事道具だ。仕事を終えるには両手が必要なのだから、始める前から怪我をすることは避けたかった。


 さあ、ビンナガを食わなあかん。

 手鉤ギャフを使えばここからでも届くやろ。ここで食おう。


 全力さんは膝をつき、昨日蹴飛ばした船尾のマグロにギャフを伸ばした。予備のロープを避けつつ、慎重に引き寄せる。再びロープを左肩で支え、左手と腕に力を入れつつ、ギャフの先からマグロを外した。


 全力さんは、頭の後ろから尾に向かって縦に刃を入れ、赤黒い肉を切り出した。六つの切り身をつくり、それを舳先の板の上に並べる。ナイフをズボンで拭き、残った骨の尻尾をつまんで海に投げ捨てた。


「一切れ、丸ごとは食いにくいなぁ……」


 全力さんは、切り身の一つにナイフを入れた。ロープは変わらず強く引き続けている。すると突然、左手が引きつりを起こした。重いロープをきつく握ったままの左手を、全力さんはうんざりして眺めた。


「なんてこっちゃ。こんなタイミングで用無しになりおって! いっそ、鉤爪にでもなってまえ! このままじゃ、何の役にも立ちゃあせん!」


 悪態をつきながら、全力さんは、斜めに走るロープの先の暗い海を見下ろした


 いや、手ぇそのものが悪いわけやない。栄養と休憩が足りとらんのや。もう長い時間、あの魚とこうしとるけぇな。休むわけにはいかんが、栄養ならたっぷり送り付けちゃる。


 全力さんは一切れつまみあげ、口に入れて、ゆっくりと噛んだ。まずくはない。よく噛んで、残らず栄養を吸収するのだ。ライムかレモンか、せめて塩でもあればいいのだが。


「具合はどうや? お前のために、もう少し食うからな」


 全力さんは、役立たずの左手に向かって尋ねた。左手は死後硬直のように硬くなっている。全力さんは、二つに切った残りの一切れを口に入れた。じっくりと噛んでから、皮を吐き出す。全力さんは次の切り身を取り、そのまま口に入れて噛んだ。


「シイラじゃのうて、ビンナガを釣れたなぁ幸運やった。シイラは味がええだけじゃ。こいつは旨みとは無縁だが、栄養が沢山詰まっとる」


 しかし、実際の味を全く無視するのも無粋というものだった。全力さんは嘘つきではないが、この手の強がりを良く言う。食べれるうちに全部食べてしまって、後に備えよう。全力さんはそう考えた。


 耐えろよ、左手。われのために食うとるんじゃけぇ。


 あの魚にも食わせてやりたいな、と全力さんは思った。

 しかし、全力さんは、あの魚を殺さなければいけない。


「奴はわしの兄弟じゃ。それでもタマをとったらないかん。世の中はそう言う風にできとるんじゃ」


 そのためには、左手を復活させなければならない。

 ゆっくりと、念入りに噛んで、全力さんはビンナガを全て食べ切った。

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