第十話「なにくそ精神」
「さあ、もうロープをなげてまえ! 勝負の前に動かんくなるとか、空気読めんにもほどがあるやろ?」
全力さんは、石のように凝り固まっている左手に語り掛けた。握っていた重いロープを左足で押さえ、背中にかかる力に抵抗して後方に体重をかける。
それにしても、奴は落ち着いとるなあ。
こっからまだ逃げ切る自信があるんやろうか?
魚が何を考えてるのかわからない以上、全力さんの方は、魚に合わせて即席でやるしかない。跳ね上がれば色々と策も打てるだろうが、魚はいつまでも深く潜って、姿すら見せなかった。
「しゃーない。引きつりも治らんし、いつまでも付き合お。我慢比べや」
全力さんは、ひきつる左手をズボンにこすりつけ、指を開こうとしたが、拳は開かなかった。
やっぱり、夜のうちに酷使しすぎたかな?
いくつもロープを切ったり、結んだりしとったしな。
胃の中のビンナガが消化されたら開くかもしれん。
まあ、開く必要がありゃあ、何が何でも開いちゃるけどな。
「だが、いま無理やり開こうたぁ思わん。自然に開いて、ひとりでに元に戻るのが一番じゃけえの」
前方に目を向けると、海上に広がる空に、鴨の群れが飛ぶ様子がくっきりと刻まれて見えた。その姿はやがてぼやけ、そして再びくっきりと現れた。陸地の方は全く見えない。
小さな船に乗っていて、陸地が視界から消えると、やたらと怖がる連中がいる。天候の急変がある季節ならそれは正しい。しかし今はハリケーンの季節だ。ハリケーンの季節にハリケーンが来ていなければ、それだけで最高なのだ。
全力さんは、もう一度空を見た。白い積雲が、よくあるアイスクリームのように積み重なっている。さらに上には、九月の高い空を背景にして、巻雲が羽毛のように細く伸びていた。
「
まだ引きつっている左手を、全力さんはゆっくりほぐそうとしていた。漁に出ているときの引きつりは屈辱だ。合百を当てる自信があるのに、買う金がないようなものだ。
引きつりは大嫌いじゃ。アケミがここにおりゃ、肘から先を揉んでほぐしてくれるんじゃがなぁ。
突然、右手に感じるロープの引きに変化が生じた。見ると、水中へ伸びる傾斜の角度が更に浅く変わっている。全力さんはロープに体重をかけて引きながら、左手を素早く太腿に叩きつけた。ロープがゆっくりと傾きを変え、水平に近づくのが見えた。
「奴が来る。左手さん、ボチボチ仕事や」
ロープはゆっくり確実に上がってくる。やがて、船の前方の海面がゆらめき、魚がゆっくりと姿を現した。更に浮上は止まらず、水が体の左右に流れ落ちる。
魚は太陽の下で輝いた。頭と背は暗い紫色だ。側面の幅広い縦縞は、光に照らされて明るい薄紫に見えた。くちばしは野球のバットのように長く、レイピアのように尖っている。
「この船より、二フィートはでかいな」
魚は全身を露わにする高さまで水面から跳ねると、滑らかに、再び潜っていった。大鎌の刃のような尾が沈んでゆき、再びロープが走り始める。全力さんは両手を使って、ロープが切れないように長さを調節しようとした。一定の力で引いて速度を落としてやらなければ、魚はロープを全て引っ張り出してしまうからだ。
大した野郎じゃ。だが、思い知らせにゃあならん。引きつりに気づかせてはならんし、突っ走ればどうにかなると悟られてもいけん。
全力さんが奴の立場なら、全力さんに向かって積極的に攻撃を仕掛けるだろう。右手一本で殺り切れるはずがないからだ。しかし、幸いなことに、魚には人間ほどの知性はない。気高さや能力では奴らのほうが遥かに上だが。
わしは、千ポンド以上の魚にも何度も出会った。その大きさのものを引き上げたことも、二回ある。大丈夫や。
しかし、その時にはアケミがいた。今は一人だ。陸地も見えない場所で、これまで感じたことのないような力強い魚相手に、全力さんは苦戦している。左手はまだ、握られた鉤爪のようにこわばっていた。
「まあ、引きつりは治るやろ。勝つにせよ、負けるにせよ、こんなしょっぱい理由で海の神様は勝負を決めやせん。これから何度も、振り回してくるはずや」
魚は再び速度を落とし、元のペースに戻っていた。
「あの魚に勝ちたいなぁ……。オワコンのわしに向かって、全力でぶつかってくるあの魚に」
それにしても、なして奴は跳ねたんやろ? まるで、自分のでかさを見せつけるようやった。ならばこっちも、どがいな人間か見せつけてやりたいもんや。だがそうすると、左手が引きつっとることを悟られることになる。
「わしはわしを、実力以上に見せにゃあいけん。ほいで実際、わしはこれから、わし以上になるんじゃ」
全力さんは楽な姿勢で船べりにもたれ、襲ってくる痛みに耐えた。魚は弛みなく泳ぎ、船は暗い海の上をゆっくりと進む。東から吹いてきた風で、海面は少し波立っていた。
お日様が最も高く上がる頃には、全力さんの左手も少し良くなってきていた。
魚が掛かってから丸一日たったが、全力さんは一睡もしていない。
「お前には悪い知らせやな」
そう言って全力さんは、肩を覆う袋の上のロープの位置をずらした。全力さんは楽にしていたが、痛みはあった。しかし自分では、痛いことを全く認めてなかった。
「わしは信心深うはないが、お前を釣り上げられるように、『なにくそ精神』を十回唱えよう。ほいで捕まえた暁にゃあ、きっと薄伽梵様にお参りする。誓うてそうする」
全力さんはお祈りの言葉を機械的に唱え始めた。あまりの疲労で、何度か『そ』の段を思い出せなくなったが、そういう時は言葉がひとりでに出てくるように、早口で唱えるのだった。
なにくそのなー、【投げ出さない】
なにくそのにー、【逃げ出さない】
なにくそのくー、【腐らない】
なにくそのそー、【背かない】
祈りを唱えていると気分は良くなったが、痛みはむしろ少し増した気がした。全力さんは
「今はとにかく、体力を温存せにゃあならん。奴があがいにでかいたぁ、思わんかった。しかし、わしは奴を殺す。栄光に輝いとるあいつを」
全力さんはこれまで、数々の生きものを殺しまくって来た。借金のカタに釣具まで持っていかれて、ウミガメをナイフで殺し始めた時は、流石に心が痛んだ。鳥や亀の卵だって、たくさん取った。ひどい話だ。
「卵から生まれる奴らは信用ならん」と口では言いながら、全力さんは結構、鳥やウミガメの事が好きだった。彼らは可愛いだけでなく、全力さんの借金を、肉や卵で代わりに支払ってくれたからだ。でも全力さんは、彼らに何も返してない。
「猫の時は良かったなあ。カリカリと、おひねりのちゅーるがあればそれだけで満足やった。人間はそうはいかん。悪いことをせんと生きていけん」
カリカリが何で出来とるのかよう知らんけど、少なくとも今よりは殺しとらんはずや。えっちゃんは、たくさん魚を獲ると喜んでくれたけど、食う以上に殺す必要が一体どこにあるんやろ?
「わしはきっと間違っとるんじゃろう。でも別に、正しくなくったってええ。何で、誰かの決めた正しさに従わなあかん」
猫にはいつだって、今しかない。合百を張る時とは違って、漁に出てるときの全力さんは、昔の事をなるべく考えないようにしていた。過去はいつだって、悲しみしか生まないからだ。海の神様は、臆病な者を嫌う。
「わしはおかしな年寄りなんやと、アケミに話したことがあったな。今がそれを証明する時や」
全力さんはいま、改めてそれを証明しようとしていた。これまで全力さんが成し遂げてきた事など、もはやなんの意味を持たない。
目の前に、最高の敵がいるのだから。
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