第八話「二つのつがい」

 全力さんには、悪くなる前にさっきのビンナガを食べる必要があった。

 この戦いはきっと長くなる。まだまだ力が必要だ。


「わしはきっと、こいつを獲るために一五〇連敗もしてきたんじゃろうな。それぐらいのツキはいる奴じゃ。いいか、明るくなったらビンナガを食うのを忘れるなよ、きっとだぞ!」


 全力さんは自分に念を押した。

 

 夜になると、ネズミイルカのつがいが船のそばに現れた。体を回転させたり、息を吐き出したりする音が聞こえてくる。おそらく交尾をしているのだろう。全力さんは元々猫なので、オスが息を吐き出す音と、メスのため息のような呼吸とを、はっきり聞き分けることができるのだ。


「イルカむかつく」

 

 全力さんは吐き捨てた。


「ふざけんな、おかならともかく、こんなところで目合まぐわいよって! こっちは今、大物と命を懸けた勝負をしとるねん!」


 全力さんは一瞬、背中からロープを外し舳先へさきに括り付けると、思いっきりオールをふりあげた。そして、近場に居たオスのイルカの頭の上に、思いっきりオールを振り下ろす。


「こん、腐れ外道め!」


 イルカは「キューィ……」みたいな声を出して、海の底へと沈んでいった。天国から地獄だ。この時の全力さんには、まさかこの八つ当たりが、後で災いとなって降りかかるなどとは、思っても見なかった。


「ざまあみろ。ワシたちと同じ哺乳類のくせに魚みたいな姿しやがって。紛らわしいねん」


 気を晴らした一方で、全力さんは自分が引っ掛けた大きな獲物に同情し始めた。奴は正真正銘、滅多にいない素晴らしい魚だ。こんなに強い魚も、こんなにおかしな動きをする魚も、全力さんは今まで見たことがなかった。


「きっと、賢いから飛び跳ねないんやろ。もし、奴が跳ね回って突っ込んでくれば、わしなんか一瞬で吹っ飛ばされてまう。おそらく奴は、前に何度も引っ掛けられて、これが一番の戦い方やと学習したんや」


 しかしまさか、自分の相手がたった一人で、しかもこんなオワコンの初老の男だとは気づいてはいないはずだ。


 それにしても、でかい魚だ。肉質さえ良ければ、市場で相当な高値が付くだろう。奴は男らしく餌に食いついて、男らしく引っ張っている。その戦い方は潔かった。


 何か考えがあるんやろか?

 それとも、わしと同じで、ただ足掻いとるだけかなぁ?


 全力さんは突然、数年前につがいのカジキのメスを殺してしまった時の事を思い出した。あの時はアケミも一緒だった。カジキのオスは、餌を見つけると必ずメスにほうに先に食べさせる。だから二匹がつがいの場合、仕掛けに引っ掛かるのは必ずメスの方で、パニックを起こして自暴自棄な暴れ方をするのだ。


 オスはずっとメスのそばにいて、ロープの前を横切ったり、海面を一緒に旋回したりしていた。オスがあまりに近づくので、全力さんは、尾でロープを切られてしまわないか心配だった。


 カジキの尾は大鎌のように鋭い。しかたなく全力さんは、メスの体に手鉤ギャフを打ち、棍棒で殴りつけた。レイピアのようなくちばしのザラザラした刃先を捕まえながら、魚体が銀の死色に変わるまで、延々とその頭を殴り続けたのだ。


 それからアケミの助けを借りて、メスを船に引き上げた。

 この間もずっと、オスのカジキは船のそばに留まっていたのだった。


 全力さんがロープを片付けて銛を手に取ると、オスは船の間近で、メスの姿を確認できるほど高く飛び上がった。そしてそのまま、深く潜って行ってしまった。翼のような胸びれを大きく広げ、薄紫の縞模様を見せつけたあのオスの姿は、本当に美しかった。


「最後まで寄り添ったんや。えっちゃんに捨てられたことを除けば、あれがわしの人生の中で、一番悲しい出来事だったな」


 全力さんはそう考えた。アケミもとても悲しんでいた。二人は何だか、いたたまれない気持ちになってしまって、死んだメスに謝りながら、直ぐに体をばらしてしまった。


「アケミがここにおってくれたらなあ……」


 全力さんはそう言いながら、舳先へさきでたわんだ船板に再び寄りかかった。肩にまわしたロープを通して、大魚の力が伝わってくる。一体どこへ向かっているのか、魚は自身の選んだ道を着実に進んでいた。


 奴が選んだんは、全ての誘惑や罠から遠く離れて、暗い海の深い所にとどまることや。わしの選んだんは、全ての人間を振り切って奴を追いかけ、奴を殺すことや。それでわしらは一緒におる。


 お互い、誰かの助けは期待できん身じゃのぅ。


 闘いが二日目に入った後、背後にある餌の一つに何かが食いついた。枝の折れる音が聞こえ、ロープが船べりを滑り出ていった。いつもなら嬉しいはずのその音が、今日はちっとも嬉しくなかった。


 全力さんは、漆黒の闇の中でナイフを鞘から抜いた。体を後ろに傾け、大魚の引っ張る力を左肩だけで支えながら、ロープを船べりの板に押しつけて切った。それから一番近くにあったロープも切り、控えのロープの末端同士を、闇の中でしっかりと結びつけた。


 片手だけで巧みに作業を進める。結び目をきつく締める時には、足を使ってロープを押さえつけた。これで、控えのロープが六本になった。切り捨てた餌についていたものが二本ずつ。あの魚が食いついている餌のためのものが二本。既に全部繋いである。


 明るくなったら七〇メートルの餌のところに戻って、それも切ってしまおう。全力さんはそう決意した。そうすれば、その分のロープも繋げるからだ。でもそれは、質の良いロープを二〇〇メートル分と、カギとハリスを失くす事を意味した。


 所詮代わりがきく物や。もし、別の魚を引っ掛けたせいで奴を逃がしたら、その代わりがおるか?


 一体、何の魚が食いついたのか、それは分からない。マカジキかメカジキか、あるいはサメだったかもしれない。全力さんは引いてもみなかった。確かめるより先に、切り落とさなければならなかったからだ。全力さんは、再び声に出して言った。


「アケミがおってくれたらなあ……」


 しかし、アケミはここにはいない。いるのは全力さんただ一人だ。


 わしは何を温い事を言いよるんや? 暗うても構わず、最後のロープを切ってしもうたほうがええ。切ってしもうて、控えのロープ二本を繋ぐんじゃ!


 全力さんは実行した。暗闇の中では非常に難しい作業だった。


 一度、魚がうねるように大きく動き、全力さんは顔から引き倒されて目の下を切った。少しだけ頬に血が流れたが、顎に届く前に固まって乾いてしまった。何とか舳先へさきまで戻り、船板にもたれて休んだ。


「人間はえらいなあ……。はよう、猫に戻りたいなあ……」


 全力さんは、肩に当てた袋の位置を調整しながら、ロープの当たる場所を慎重に変えた。肩で支えるロープから伝わる引き具合を注意深く確かめつつ、片手を水に入れて船の進む速さを測った。


 奴も少し疲れて来とる。だが、なんで奴はあがいにふらついたんやろ?

 大きゅう盛り上がった背中に、針金がこすれたんやろか?


「まあ、わしの背中ほどひどい痛みやないやろうがな」


 そういって、全力さんは笑った。


「奴がなんぼ立派や言うても、この船を永遠に引き続けるわけにゃあいかんはずや。もう何も心配なこたぁない。控えのロープも十分にある。やれるこたぁ全てやった」


 全力さんは声に出して、優しく言った。


「魚よ。わしゃあ、死ぬまでわれと一緒じゃ。われもきっとそのつもりじゃろ?」


 全力さんはしっかりとロープを握りながら、夜明けを待った。日の出前のこの時間は冷える。全力さんは、船板に体を押し付けて寒さをしのいだ。


「奴がやる限りは、わしもやってやる。わしの全力をもって奴を殺す、それがわしの礼儀じゃ」

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