第七話「相場の声」

 全力さんは、親指と人差し指の間にロープを挟んで待ちながら、全てのロープに気を配った。今度は水深を変えてくるかもしれない。しばらくすると、先ほどと同じ柔らかい引きが来たが、やはり食いつかなかった。カジキは逃げ、手ごたえは無くなった。 


 いや、逃げるはずがない。絶対にない。奴は向きを変えて戻ってくる。

 あのイワシの匂いを嗅いで、見過ごせる奴などおらん。


「もしかしたら、前に引っ掛けられた経験があって、それを思い出しとるんかもしれんなぁ」


 全力さんは独り言ちた。自分の仕掛けには、絶対の自信がある。足りないのはツキだけのはずだ。三度みたび優しげな引きを感じ、全力さんは喜んだ。


「よっしゃ! ひと回りしとっただけや。食いつくで!」


 弱い引きの感覚を喜んだ全力さんは、ほどなくして、強く、信じがたいほどの重みを感じた。大物の重みだ。全力さんはするするとロープを送り出す。巻いてあった控えのロープのうち、一本分は既に出てしまっていた。


「ガチな奴やんけ」


 ロープは全力さんの指の間を軽く浮き、親指にも人差し指にもたいした力はかかってなかったが、全力さんはまだ確かな重みを感じていた。


「なんて奴じゃ……。マグロを横向きにくわえて、そのまま逃げようとしとる」


 まんまとマグロを抜き取って、暗闇の中を逃げて行こうとするカジキの様子が、全力さんの目に浮かんだ。絶望で膝が抜けそうだった。だが、今日の全力さんには確かにツキがあったのだ。


 ややあって、重みが増し、全力さんは更にロープを送り出した。親指と人差し指に少し力を入れると、更に重みが加わり、ロープはまっすぐ海の中へ潜ってゆく。


「よっしゃ! しっかり食わせたろ!」


 指からロープを滑らせながら、全力さんは左手を伸ばした。控えのロープ二巻を、別の控えの二巻にしっかりと結ぶためだ。これで準備は整った。今持っているロープに加え、七〇メートルの控えが三巻も用意された。


「もうちっと食うんじゃ。しっかり食らいつけ!」


 鉤の尖端が心臓に突き刺さって、われ自身を殺してまうくらいにな。

 さあ上がって来いよ。そしたら、銛を思いっきり打ち込んだる。


 全力さんは気合を入れると、ロープを両手で思い切り引いた。腕に全力を込めながら体重を乗せ、両腕を交互に振るようにしてグイグイと引っぱる。だが、気分が良かったのはそこまでだった。


 一メートルほど手繰り寄せた所でロープはピタリと止まり、それ以上、1センチたりとも引き上げることはできなかった。ロープは逆流をはじめ、魚はゆっくりと遠ざかっていく。


「なんやこれ、半端ないなあ……」


 最初から大物狙いで来たくせに、全力さんは愚痴をこぼした。仕方がないので、全力さんはロープを背中に回して支えた。大物用の丈夫なロープがぴんと張り、水滴が飛び散った。やがて水中のロープから、じりじりと鈍い音がしてくる。全力さんはロープを握って船梁に寄りかかり、体を反らせて必死に抵抗した。


 船はゆっくりと、魚の逃げる北西の方角へ動き始めた。


「アケミがおってくれたらなあ……」


 魚は弛みなく逃げ続ける。穏やかな海を、船は魚と共にゆっくり移動していった。他の餌はまだ水の中だが、全力さんにはどうしようもなかった。



「魚に引っ張られて、これじゃワシが曳航用の繋ぎ柱や。ロープを固定しよ思えばできるけど、うまく調節をせんと奴に切られてまう」


 なんとしても、この大物を逃がすわけにはいなかった。引っ張りたいならもっと伸ばしてやればいい。伸ばせば伸ばすほど、ロープの重さで奴の方が苦しくなる。ありがたいことに、魚は移動してはいるが深く潜ろうとはしていなかった。


 もし潜り始めたらどうするか? 

 底まで潜って死んでしもうたらどうすべきか? 

 分からん。だが、何とかするさ。

 なんぼだって手はあるんじゃ!


 魚はいずれ死ぬ。ずっとこうしていられるわけがない。しかし、喰いついてから四時間たっても、魚は変わらずゆっくりと、船を引きながら沖へ向けて泳ぎ続けていた。全力さんも変わらず、背中に回したロープをしっかり支えていた。


「奴を引っ掛けたのは正午やった。なのにわしは、まだ奴の姿すら拝んどりゃせん。もうすぐ日没や」


 食欲は全くなかったが、喉がひどく渇いていた。全力さんはロープを引っ張らないように注意しながら舳先へさきに近いところまで這って行き、片手を伸ばして水の瓶を取った。栓を取り、少しだけ飲む。そして舳先に寄りかかって少し休んだ。


「えらいなあ……。人間やるのは割に合わんで」


 横たえてあるマストと帆の上に腰を下ろして、全力さんはただひたすらに耐えていた。振り返ると、そこは完全な外海で陸地は全く見えなかった。


「いや、どうってことはない。灯りを目指せば、いつだって帰れるんや。日没までまだ時間はある。それまでには奴も上がってくるやろ」


 ホンマやろうか? 全力さんは悩んだ。


「まあもしかしたら、月と一緒に姿を見せるかもしれんな。さもなくば、明日の日の出か……。まあええわ。わしはまだすこぶる元気やし、体の引きつりもない。口に鉤が刺さって飯が食えんのは、奴のほうじゃ」


 飯を食えないのは全力さんも同じなのだが、それについては考えないようにしていた。

 考えたって仕方ない。


「それにしても、この引きはどうや。針金までしっかり咥えこんどる。姿を見たいなあ。ひと目だけでも見て、わしの相手がどんな奴なのか知りたいなあ……」


 全力さんは、日なたに広げて乾かしておいたエサ箱を覆っていた袋を取った。それを首に巻いて背中のほうに垂らし、肩にかかっているロープの下に慎重に差し入れた。


 全力さんにはずいぶん楽になったように思えたが、実際には、多少我慢しやすいという程度だった。


「こうして、舳先へさきへ寄りかかれば少しは楽が出来る。ああ、ダメソファで居眠りできた時は良かったなあ」



「今のわしには何もできん。だが、奴も何もできんやろ。奴がこのまま泳ぎ続ける限りは、この関係は変わらん。我慢比べや」


 星を見て判断した限りでは、その夜、魚は進む方向を全く変えていなかった。太陽が沈むと、ひどく寒くなった。汗は乾き、全力さんの背中や腕や老いた脚を冷やした。肩からまっすぐに水中に走るロープは、燐光を放つ筋のように見える。船の動く速度は、僅かだが落ちていた。


「アケミがおってくれたらなあ。手助けを頼めるし、いい経験をさせてやれるのに……」


 年を取って独りでいるのは良くない。全力さんはそう思った。

 しかし、今更どうにもならない。


 この世界に飛ばされてきた時、直ぐに元の世界に戻れるやろと、全力さんは考えていた。いずれ猫に戻るなら、好きな事をしようと女の子とばかり遊んでいると、えっちゃんがめちゃくちゃ怒った。えっちゃんが居なくなり、ウミガメを獲りながら借金を返してる間は、誰も自分に構ってはくれなかった。


 エサは誰かがくれるもので、可愛がられるのが当たり前だと思ってた全力さんには、あの三年間は本当に堪えた。『はよう、えっちゃんが戻って来てくれんかなあ……』と思いながら、毎日毎日、罫線チャートを引いて暮らした。


 えっちゃんは、結局戻ってこなかった。全力さんは合百の所為で借金をこさえたし、ちょっと頭もおかしくなったけど、もし合百がなかったら、本当にダメになっていただろう。


 お家で罫線チャートを引いてる時だけは心安らかに過ごせた。チャートを見ていると相場の声が聞こえる気がした。感覚もひどく冴えて、船を買い戻してからは、大物を何匹も釣り上げた。でもその話をすると、周りの人は皆、可哀想な目をして全力さんを見る。だから全力さんは、今ではその話を誰にも言わなくなってしまった。


 今の全力さんは、えっちゃんの望んでた堅気だ。たとえ一五〇連敗していようとも、まごうことなき堅気なのだ。合百だって、もうやってない。借金はちょっとあるけれども。


「あかん。わしもちょっと疲れて来とるな」


 カジキが食いついてから既に半日以上が経過していた。

 今は、奴を釣り上げる事に集中しなければならない。


「自分のやるべきことだけを考えるんや。相場の事なんか考えてる場合やない」


 これが、一日目の夜の話。これから更に二日半にわたって、全力さんと海との闘いは続くのである。

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