第六話「ウミガメ獲り」
全力さんは、それからいっそう
それから数か月もしないうちに、えっちゃんの溜めておいてくれた貯金は綺麗さっぱりなくなってしまった。えっちゃんの残したお家以外は、全部借金取りに持っていかれてしまったので、全力さんはウミガメ獲りをするようになった。ナイフ以外に特に道具は要らないからだ。
ウミガメの好物はクラゲだった。ウミガメは彼らを見つけると、正面から近づいて行き、眼を閉じて触手ごとモリモリと食べてしまうのである。全力さんは元々猫だから、ウミガメ獲りは難なくこなした。クラゲに刺されるのには閉口したけれども。
合百もイチから勉強を始めた。海から帰ると何もすることが無いので、全力さんは新聞から株価を引き写して方眼紙にチャートを引き、相場の研究に没頭していた。友達は一人もいなかった。
全力さんは、ウミガメを神秘的な生き物だとは思っていなかった。人間から突然背後を襲われナイフで殺される、ただの可哀想な生き物だ。小船と同じくらいの大きさで、体重は一トンもあろうかという巨大なオサガメのことさえ、哀れんでいた。
見た目はとても綺麗なのに、近づくと刺されて厄介だったから、全力さんは電気クラゲの事をえっちゃんと呼んでいた。全力さんは大きなウミガメが、えっちゃんを食べてしまうのを見るのが大好きだった。
全力さんは、タイマイも好きだった。その姿は優雅で、甲羅には大変な値打ちがあるからだ。愚かなアカウミガメにも、親しみを抱いていた。黄色い鎧を着けて、おかしな求愛行動をする奴で、えっちゃんを食べる時には幸せそうに眼を閉じるのだ。
三年ほどウミガメ獲りを続けたあと、全力さんは合百で物凄い大勝をした。全力さんは、配当金で釣具を全部買い戻し、船も新調した。そして全力さんは、ウミガメ獲りを辞めて再び元の漁師に戻った。
それから暫くの間は、全力さんは、合百の名人として村じゅうの評判だった。全力さんの相場の予想について話すと、たちまち人だかりができるようになった。街に住んでいるお金持ちまで、わざわざ車で聞きに来たくらいだ。
「漁師なんてやめて、相場一本で喰っちゃどうだい?」
そう誘われたりもしたけれど、全力さんは断った。えっちゃんの言ってたことは、全部本当だと思っていたし、どんな当たり屋もいずれは予想が当たらなくなるものだからだ。
「合百は、最後は負けるように出来てるんです。女の子は貴方が好きなんじゃなくて、貴方のお金が好きなんです。いい時は、決して長くは続きません。貴方には釣りの才能があるんだから、ちゃんと真面目にやりなさい」
全力さんは、えっちゃんのこの言葉を終生忘れることがなかった。だから、漁師を辞めることはなかったし、女の子遊びもしなかった。合百が的中した時に、皆にお裾分けする事は忘れなかったけど、村人との付き合いもほどほどにした。
堅気になってから何年たっても、えっちゃんは帰ってこなかった。元の世界に戻れる当てもなかった。だけどその頃には、アケミが全力さんの助手を務めるようになっていたので、全力さんは寂しくはなくなった。
アケミの顔は、母親であるえっちゃんにちょっと似ていた。だけど性格はとても優しくて、気性も穏やかだった。全力さんは少年の師匠として、釣りとアニメとお笑いの事を一生懸命教えた。けれども、合百の事だけは、聞かれても絶対に教えなかった。
相場に嵌ると、人は絶対におかしくなる。全力さんはその事を知っていたからだ。全力さんも、一時はだいぶおかしくなっていたけど、えっちゃんの言葉があったから、何とか立ち直れたのだ。
全力さんとアケミはいつも一緒に居た。血のつながりはないけれど、まるで本当の親子みたいだった。優しい時のえっちゃんが、ちっちゃくなって帰って来たみたいだなと、全力さんは感じていた。
平穏な日々が十年くらい続いた。全力さんはまあまあ幸せだった。
相変わらず、猫に戻りたいなあと思ってはいたけれど。
「あの鳥にゃあ、えろう世話になるなぁ」
その時、全力さんの足の下で輪にしてあったロープが、船尾のほうへグっと引っ張られた。全力さんはオールから手を離した。ロープを手繰り寄せると、その先には小さなマグロが体を震わせていた。
全力さんは船べりを越えて、魚を一気に船に引きあげた。マグロは引き締まった弾丸のような体をして、大きく無表情な目を見開きながら、よく動く尾を素早く震わせ、船板に生命を打ちつけている。久しぶりの釣果だ。
全力さんは嬉しさのあまり、魚の頭を思いっきり蹴飛ばした。
魚は船尾の陰まで飛び、それでも震え続けている。
「ビンナガやー。いい餌になるぞ。十ポンドはありそうや!」
独り言を言うようになったのは、いつからかな? と、全力さんは考えた。きっと、アケミが去って一人で漁をするようになってからだ。アケミと一緒に漁に出ていた頃は、必要な時以外、ほとんど会話を交わさなかった。
二人が話すのは、狙った場所に行く途中と、魚を釣り上げた時だけだった。海の上で喋りに夢中になってると、当たりを見逃して、エサを食い逃げされる。ボウズは諦められるが、エサのタダ取りされるのは魚に負けたのと同じだ。
「べらべら喋りよるのを誰かが聞いとったら、わしのことを気違いじゃ思うやろな」
全力さんは声に出して言った。
「だがわしは気違いやない。前世が猫なだけや。金持ちの奴らは、船の中にスマホやパソコンまで持ち込んで、配信なんぞしとるらしいやないか」
全力さんの家は、今は電気すら通ってない。けれども猫だった時代には、ヴァルダと一緒にチャー研を見ていたから、ネットのことはよく知っていた。話題が少し古いだけだ。
「この群れのまわりに、大物がおるかもしれん。まだ、群れから逸れたビンナガを一匹を釣っただけや」
マグロは再び潜ってしまった。全力さんの目に映るのは、差し込む光が水の中に作るプリズムと、水底まで真っ直ぐに垂らされている全力さんのロープだけだ。
太陽は赤々と燃え、全力さんはうなじに光を感じた。漕ぎながら、背中に汗が流れるのが分かった。漕がずに流すという手もあると、全力さんは思った。しかし、まだ一匹釣りあげただけだ。頑張らなければならない。
「この汗という奴は厄介やなぁ。猫の時は、全然かかんかったのに」
その時、ロープを見守る全力さんの目に、突き出た生木の枝の一本が勢い良くたわむのが見えた。
「よっしゃ!」
ツキは段々自分に向かってきている。全力さんは、船を揺らすことなくオールをおさめた。ロープを親指と人差し指の間に挟み、そっと押さえる。すると、また引きが来た。今度は試すような軽い引きだった。
全力さんは状況を正確に理解した。一五〇メートルの深さで、カジキが餌を食べている。小さなマグロの頭から突き出た手製の鉤の、軸と先端を覆っているイワシを少しばかり齧ったのだ。全力さんはロープを軽く押さえたまま、左手で枝からそっと外した。
これで魚に全く抵抗を感じさせずに、指の間からロープを送り出すことができる。この時期にこれだけ遠い沖にいるのなら、大物に違いない。全力さんは叫びだしたい気持ちを必死に抑えて、心の中で考えた。
「喰え! もっと食え! 最高に新鮮な餌やろ? 暗闇の中をひと回りして、戻ってきて食いつくんや!」
かすかに、柔らかい引きを感じた。続いてちょっと強い引き。だが、イワシの頭が鉤からすんなりと取れなかったのだろう。引きはなくなってしまった。
またひと回りして、匂いを嗅いでみぃ。素晴らしいイワシやろ? たっぷり食うたら、次はマグロや。硬うて冷とうて、最高の味や。さあ、遠慮しんさんな。がっつり食うんや。
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