第五話「えっちゃん」

 全力さんにとって、海は「メンヘラ」だった。

 ヴァルダの店の常連だった、伊集院が教えてくれた言葉だ。


 海は時に意地悪だったり、理解不能な現象を起こしたりもするが、寄り添ってさえいれば基本的に穏やかだし、自分の事を愛してくれている。全力さんはそう考えていた。だからこそ、一五〇日間、何も獲れなくてもめげなかったのだ。


 全力さんは船を動かす仕事のほとんどをその流れに任せた。明るくなり始めた頃には、予定よりずっと遠くまで来ていた。夜が明けきる前に、全力さんは仕掛けを下ろし、船の動きを流れに預けた。



 一つ目の仕掛けは七十メートルまで沈めた。二つ目は一〇〇メートル、三つ目と四つ目はさらに海中深く、一五〇メートルと二〇〇メートルまでロープが届いている。


 それぞれのロープの先では、餌となる小魚が鉤の軸に体を貫かれていた。鉤の先の小魚の体から突き出た部分は、曲がっている部分も先っぽも、新鮮なイワシで覆われている。大きな魚がどこから近づいても、きっとすばらしい匂いと味を感じられるはずだ。


「とりあえずはこれでええやろ。後はしばらく、待つだけや」


 アケミがくれた餌は、小さなマグロ二匹だった。その二匹は、深いほうの二本の仕掛けにおもりのように吊り下げられていた。勿論、匂いで獲物を惹きつけるためのイワシも一緒にしてある。


 四本のロープはどれも太めの鉛筆ほどの直径で、切ったばかりの生木の枝に結ばれていた。魚が餌に触れたり餌を引っ張ったりすれば、枝がたわんで合図となる仕組みだ。


 全力さんはロープを垂直な状態にして、仕掛けの深さが変わらないように、ゆっくりと漕いだ。辺りはもう明るい。間もなく日の出だ。海からうっすらと太陽が昇り始める。太陽が海面をぎらぎらと照らすと、その光は平らな海に反射して、全力さんの眼を鋭く突き刺した。


 全力さんは顔を背けて漕いだ。そして水を覗き込み、暗い海の中へとまっすぐに垂れたロープを見つめた。意外なことに、全力さんは水中のロープを垂直に保っておくのが誰よりも上手かった。この技術によって全力さんは、全ての餌を望み通りの深さに正確に配置し、狙った魚のみを的確に狙うことが出来た。


 他の漁師たちは、餌が流れに漂うことを気にしたりはしない。

 だから、運任せでしか大物を釣り上げることが出来ぬのだ。


「わしの腕は確かや。ただ運に見捨てられとるだけや。今日こそはきっといける。勿論、運はあったほうがええけど、運任せはつまらん」


 どのロープにも、七〇メートルのロープを二本ずつ、控えとして付けてある。控えのロープ同士は繋げられるようになっているので、いざという時には、五〇〇メートル以上の一本のロープにして魚に対応できるのだった。


 日の出から二時間が経った。東のほうを見ても、もう眼はさほど痛まない。全力さんの眼は、長年の漁師生活の中でずっと痛めつけられてきたが、今でもとてもよく見える。眼と腕が確かなら、大物が釣れない方がおかしい。足りないのは運だけだ。


 ちょうどその時、前方の空に、黒く長い翼を持つ軍艦鳥が旋回するのが見えた。軍艦鳥は、翼を後ろにそらせて斜めに急降下した。そしてまた旋回を始めた。


「何かを見つけたんやろ。ただ探しよる時の飛び方やない」


 全力さんは鳥が旋回するあたりに向かって、ゆっくりと漕いで行った。ロープはピンと垂直を保ったままだ。正しい釣り方を崩さずに、全力さんは少しずつ鳥の方に進んで行った。



 鳥は空高く舞い上がり、翼を動かさずに旋回したかと思うと、突然また降下した。海からはトビウオたちが跳ね上がって、必死に水面を走っている。


「シイラや。めっさでかいシイラがおる」


 全力さんはオールを船内におさめると、舳先へさきから細いロープを取り出した。そこには針金のハリスと、中くらいの釣り針がついている。全力さんはイワシを一匹つけ、船べりから投げた。そしてロープの端を、船尾のリングボルトにしっかりと結びつけた。


 それから別のロープにも餌をつけ、こちらは巻いたまま舳先に置いておいた。全力さんは再び漕ぎ始め、黒く長い翼の鳥が水面近くで飛び回るのを見つめていた。


 鳥はまた翼を傾けて急降下し、トビウオを追った。その時、水面がわずかに盛り上がるのが見えた。逃げるトビウオを狙って、大きなシイラの群れが海面に近づいているのだ。シイラたちは滑空するトビウオの下を、水を切り裂きながら進んでいく。トビウオが水に落ちる地点を狙っているのだ。


「大群や!」


 シイラたちは大きく広がっている。トビウオが逃げ切る見込みはほとんど無い。鳥が上手くやれる見込みはもっと無かった。あの鳥にはトビウオは大きすぎるし、トビウオのほうがずっと速い。


 トビウオが次々と海面から跳ね、鳥がむなしく飛び回る様子を、全力さんはじっと見ていた。シイラの大群には逃げられたが、はぐれた奴が釣れることもあるだろう。それに大物が、奴らの後を泳いでいるかもしれない。


「何かを狙うもんは、また別のもんに狙われるし、狙うもんの方が強い。世の中はそう言う風に出来ておるんじゃ。とにかく、わしの狙う大物は、どこぞに必ずおる」


 海の中を見下ろすと、暗い水中に赤く散らばるプランクトンや、太陽の作り出す不思議な光の模様が見えた。全力さんは、闇の中にまっすぐ垂れ下がるロープを見つめ、水中にプランクトンが多いことを喜んだ。それは、魚がたくさんいる証だからだ。


 鳥の方は、もうほとんど見えなくなってしまった。海面に見えるのは、日に焼けて黄色くなったホンダワラの切れ端と、船のすぐそばを漂う電気クラゲカツオノエボシだけだ。



 全力さんはこの電気クラゲの事を「えっちゃん」と呼んでいた。アケミの本当の母親の名だ。えっちゃんは、綺麗な形をしたゼラチン質の浮き袋を虹のように輝かせながら、ひっくり返ったり元に戻ったりして、まるで泡のように陽気に漂っていた。

 

「えっちゃんかぁ……。本当に怖かったなあ」


 虹色の泡は美しい。しかし奴らは海で一番の詐欺師だ。小魚たちは毒に対して免疫があるが、人間はその免疫を持たない。もしも触手がロープに絡み、ぬるぬると紫色にまとわりつけば、ロープを引っ張る全力さんの手や腕に、みみず腫れと痛みをもたらすだろう。


 ウルシの毒でかぶれるのと少し似ているが、えっちゃんの毒はもっと速く、鞭で打つように人を襲う。その痛みは、ひーちゃんのハリセンとは比べ物にならなかった。


「合百の稼ぎは金じゃないって言って、毎日早うから起こされたなあ……。おかげでわしは、すっかり堅気になってしもうた」


 えっちゃんは、この世界に飛ばされてきた全力さんを最初に見つけ、介抱してくれた女性だった。全力さんは、えっちゃんの遠い親戚という事にして、この村に潜り込んだのだ。


 えっちゃんは、全力さんにあの小屋を用意してくれたし、二人で一緒に居る時にはとても優しかった。だけど、全力さんが合百ごうひゃくに夢中になったり、村の女の子たちと遊んだりしていると、滅茶苦茶怒った。


「合百は、最後は負けるように出来てるんです。女の子は貴方が好きなんじゃなくて、貴方のお金が好きなんです。いい時は、決して長くは続きません。貴方には釣りの才能があるんだから、ちゃんと真面目にやりなさい」


 それがえっちゃんの口癖だった。合百は止められなかったけど、魚を獲ると喜んでくれるから、全力さんは頑張って魚を獲った。女遊びの方はすっぱり止めた。えっちゃんを悲しませたくはなかったからだ。


 幸せな日々が一年位は続いた。猫に戻りたい気持ちは変わらなかったけど、合百は面白いし、人間の暮らしも悪くはないなと全力さんは思い始めていた。けれどもえっちゃんは、ある突然、誰ともわからぬ男の種を孕んで、全力さんを置いてどこかに消えてしまったのだ。


「えっちゃんは何で、急におらんようなってしもうたんやろうなあ……。やっぱわしが、合百をちゃんと止めなかったからかな? わしがちゃんと合百を止めとけば、ずっと一緒におられたんじゃろうか?」

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