第四話「出航」

「たまにはネズミでも獲ってきなさいよ」

「いや僕、こう見えてノーブルな生まれなんで、そういうのはちょっと……」


 猫だった頃の全力さんは、夢の中で、契約者のヴァルダからクンロクを入れられていた。彼女は時々、全力さんに無理を強いたが、カリカリは沢山あったし、伊集院が時々ちゅーるも買ってくれたから、お腹がすくことはなかった。


 相方のひーちゃんは暇を持て余していたし、伊集院みたいな常連もいたから、遊び相手には事欠かなかった。何よりそこでは、普段は好きなだけ寝ていられたのだ。


 全力さんは夢の中で、大好きなちゅーるをぺろぺろと舐め、ヴァルダと一緒にお笑いを見ていた。時々、一緒にネタをやる。全力さんはいつもボケ役だ。何とか頑張って台本を覚えようと思うのだが、いつも途中で忘れてしまって、何発もハリセンを入れられていた。


 ひーちゃんはそれを見ながら、ケラケラ笑っていた。



 今の全力さんは人間だ。だから、これが夢だという事にはすぐに気づいた。着替えて、アケミを起こしにいかなきゃいけない。しかし、今夜は陸風が吹くのが早すぎた。夢の中でもそれが早すぎると分かったから、全力さんは、そのまま夢を見続けることにした。


 全力さんの夢には、嵐も女性も大事件も出てこない。大きな魚も、力比べも、漁師たちの嫌味も出てこない。全力さんが夢に見るのは、自分がまだ猫だった頃の幸せな時間だけだ。


 あの頃の全力さんには、今しかなかった。自分が人間に、ましてやオワコンになるなんてことは、想像さえしてなかった。それでも、若い時はいくらか楽しかった。全力さんは腐っても猫だから、魚を獲る事には才能がある。沢山魚を獲って、豪気に皆に分けてやるものだから、いつでも村のヒーローだった。



 ある日、世話になっていたえっちゃんという娘に、子供の名付け親になってくれと言われた。それで全力さんは、「アケミ」という名を少年に付けた。元の世界で、全力さんに沢山おひねりをくれた青年の名前だ。


 アケミの父親は誰か分からない。えっちゃんもいつしか消えてしまった。困った全力さんは村長に相談し、アケミはそのまま村長の養子になった。その事実をアケミは知らない。えっちゃんの子供であることも。


 名付け親の全力さんは、ちゅーるを愛するのと同じくらい、アケミを愛した。少年もまた、全力さんを強く慕っていた。だけど全力さんの夢に、アケミはほとんど現れなかった。多分、また猫に戻りたいと思っていたからだ。


 全力さんはふと目を覚ました。朝の冷え込みで体が震えた。しかし、震えているうちに温かくなってくることは分かっていたし、いずれにせよ、すぐに船を漕ぐのである。全力さんは小屋の外に出て、少年を起こすために坂道をのぼっていった。


「寒っ……」


 アケミは村長の家を出て、今は網元あみもとの家で暮らしている。網子の部屋は大部屋で、扉には鍵がかかっていなかった。アケミは、扉のすぐ近くにある粗末なベッドで寝ていた。


 沈みかけた月の光が差し込み、アケミの姿がはっきり見えた。全力さんは、少年の足を優しくつかんだ。少年は目を覚まし、全力さんのほうを見た。全力さんはうなずいた。少年は、ベッドのそばの椅子からズボンを取り、ベッドに腰掛けてそれを履いた。


 戸口から外に出る。少年はまだ眠そうに後についていく。

 全力さんはアケミの肩に手を回して言った。


「ごめんな」

クォQuoヴァディスVadis(気にしないで)。これも僕の仕事のうちだよ」


 二人は全力さんの小屋へと道を下っていった。全力さんの小屋に着くと、少年はロープを入れた籠と、銛と手鉤ギャフを手に持った。全力さんは、帆を巻きつけたマストを肩にかついだ。釣具を船に積み終えると、二人はヴァイマール食堂で簡単な食事を摂った。


「よく眠れた?」


 アケミは尋ねた。まだ完全に眠気が消えたとは言えないが、ずいぶん目が覚めてきていた。


「ぐっすり寝たよ。今日は自信があるで」

「僕もだよ」


 全力さんが久しぶりに活き活きしているので、アケミは嬉しかった。


「さあ、イワシを獲ってこなくちゃ。全力さんの使う新しい餌もね。うちの船では、道具はみんな自分で運ぶんだ。人に運ばせるのを嫌がるんだよ」

「わしはこんなが五歳の頃から、色々と運ばせとった」

「そうだね。なかなか子供使いが荒かったよ」


 少年は笑いながら答えた。


「すぐ戻ってくるから、もう一杯飲んでて。ここはツケがきくからね。ちゃんと残さずに食べるんだよ」


 ツケがきくのは本当だったが、ここ数か月、そのツケを払っているのはアケミだった。少年は裸足でサンゴ岩を踏み、餌を冷蔵してある氷室ひむろへと歩いて行く。


 全力さんはトーストをひと齧りして、ゆっくりとコーヒーで流し込んだ。それと小さなゆで卵が一つ。今日の食事はこれで全てだ。だから全部食べなきゃいけない。ずいぶん前から、食べる事は全力さんにとって面倒なことになっていた。体もどんどん小さくなった。


 あんなに食い意地が張っていたのに。

 あんなに、「デブやない。これは冬毛!」と言い張っていたというのに。


 しばらくすると、少年はイワシを携えて戻ってきた。餌にする小魚二匹も、新聞紙にくるんで持っている。二人は小石混じりの砂を足の裏に感じながら、船着き場へ下りて行った。そして船を持ち上げ、水上へと滑らせる。


「頑張ってね、全力さん」

「ああ、お前もな」


 二人はそこで別れた。オールに結ばれた縄の輪っかを、船体から突き出た小さな杭に通してから、全力さんは上体を前に倒す。両方のオールで水を浜辺側に押し出し、暗い港から海へと漕ぎ出した。


 弁当は持っていなかった。お金がないこともあるけれど、船の舳先へさきに、水を入れた瓶を一本置いておけば、それだけで十分だったのである。どうしても腹が減った時は、時々船に飛び込んでくるトビウオをそのまま食べた。何にも釣れなくても、とりあえず漁に出た方が、お金を使わずに済んだのである。


 他の砂浜からも船が漕ぎ出していた。真っ暗で、その様子は見えなかったけれど、オールが水に入る音は、全力さんの耳にもしっかりと届いていた。全力さんは腐っても元猫だから、耳がいいのだ。


 港の出口を越えると、船たちはバラバラに拡がっていく。いつしか聞こえるのは波の音だけになっていた。水の中で、ホンダワラとおぼしき海藻が燐光を放っている。深さが突然七〇〇メートルにもなっているこの辺りを、漁師たちは「日当」と呼んだ。ここで釣れば、その日食う分くらいは稼げるからだ。


 そこは、海底の急斜面に海流がぶつかって渦を作り、あらゆる種類の魚が集まる場所だった。沢山の小エビや小魚がいて、それらが夜になって海面近くまで上がってくると、泳ぎ回る魚たちの格好の餌になるのである。ここで粘れば、確かに連敗は止められるだろう。


 だが全力さんは、今日は何としても遠くまで行くつもりだった。

 大物を釣り上げる事でしか、百五十連敗の恥はすすげないからだ。


 陸の匂いを後にして、全力さんは朝の海の清々しい匂いの中を漕いで行った。暗闇の中で、夜明けが近いのを感じた。漕ぎながら聞こえてくるのは、海面から跳ね出るトビウオが、その硬く頑丈な翼で風を切る音だった。


 全力さんはトビウオを愛した。一五〇連敗の最中にあっても、トビウオだけは勝手に船の中に飛び込んできてくれたし、どんな食べ方をしても美味しいからだ。


 その一方で、全力さんは海燕うみつばめを哀れんだ。いつも飛び回って餌を探しているのに、ほとんど何も見つけられない。悲しげに小さな声で鳴きながら飛び回り、急降下して餌を取ろうとするあの鳥たちは、この海で生きるにはあまりにも弱かった。


「鳥の一生は、わしらの人生より苦しい。なして海燕みたいな、弱うて繊細な鳥がつくられたんやろ?」


 どんな生きものにも役割がある。全力さんにはわからないが、鳥が繊細に作られている事にも、きっとなんらかの意味があるのだろうと全力さんは思った。

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