第三話「少年の思い」

 アケミが戻ってきた時、全力さんはまだ椅子に座ったまま眠っていた。アケミはベッドから古い毛布をはぎ取り、椅子の後ろから全力さんの肩を毛布で包んだ。老いてはいるが、それでも力強い。首も頑丈だし、眠り込んで頭を前に倒しているので、皺もほとんど見えなかなった。猫だった時も、首がなかったそうだ。


 全力さんのシャツは、帆と同様に継ぎはぎだらけで、ところどころ色褪せていた。顔はずいぶん老いて、目を閉じていると生気が感じられない。膝の上には新聞が乗り、夕暮れ時の風に揺れる紙の束を、腕の重みが押さえていた。


 全力さんは素足だった。猫の時にはそれでもよかったが、人間は靴が無いと何かと不便な生き物だ。


「靴を買ってあげられたらいいのにな」


 アケミは思った。アケミは特に不自由のない生活をしていたが、一日の売上の大半は、船や道具を借りている網元に持っていかれてしまう。アケミは全力さんに何か食べ物を持ってきてあげようと思い、いったん部屋から出た。



「起きてよ、全力さん」


 アケミはそう言って、全力さんの片膝に手を置いた。一時間ほど外で時間を潰してきたのだが、全力さんはまだ眠っていたのだ。


 全力さんはゆっくりと眼を開けた。まるで、少し時間をかけて、遠い道のりを帰ってくるかのようだった。アケミの顔を見ると、全力さんは微笑んだ。


「何を持ってきたん?」

「夕飯だよ。一緒に食べよう」

「腹なら、別に減っとらんよ」

「食べようよ。食べなきゃ、漁はできないだろ?」

「そうでもないよ」


 全力さんはそう言いながら体を起こして、新聞を折りたたんだ。

 それから毛布をしまい始めた。


「毛布はかけておきなよ。とにかく、僕が生きてる間は、食べないで漁になんかさせからね」

「ありがとの。今のわしに構うてくれるなぁ、こんなくらいじゃ。ところで、今日は何があるん?」

「黒豆ご飯と、揚げバナナと、シチューがあるよ」


 少年は、二段の金属容器に入れて料理を持ってきた。ナイフとフォークとスプーンも二揃い、ペーパーナプキンで包んでポケットに入れてある。


「誰にもろうたんや?」

「ヴァイマール食堂のオイゲンさん」

「今度、礼を言わにゃあいかんな」

「十分に言っておいたよ。全力さんは言わなくても大丈夫」

「これが初めてやないんやろ?」

「そうかもね」

「明日、でかい魚をとれたら、腹の肉をやろう」


 全力さんは言った。


「いや、腹の肉だけじゃ足らんかな。めっさ世話になっとるし」

「そうそう、ビールも二本くれたよ」

「流石はドイツ人やな!」

「オイゲンさんは、フランス人だけどね」

「缶ビール?」

「瓶ビール。でも、瓶の返却は僕がやるよ」

「悪いなー」


 全力さんは言った。別に本気で悪いとは思ってない。

 餌はどこからか来るものだ。来なくなったら死ぬるだけ。


「食うたほうがええか?」

「遠慮なんからしくないよ。全力さんの用意ができてから、蓋を開けようと思ってたんだ」


 少年は優しく答えた。アケミが何故、オワコンの自分に良くしてくれるのか、全力さんには良くわからなかった。全力さんは、家族を持ったことがない。アケミ以外の人間に、仕事を手伝わせたこともなかった。


「飯を食うのに用意なんていらんよ。なにしろわしは、元々猫だからな」


 ビールだけじゃ体に悪いなと少年は思った。今度来るときは、最初から水も汲んでこよう。それから石鹸と綺麗なタオルも。シャツも要るし、冬用のジャケットだって要る。毛布も、もう一枚は必要だ。


 少年は早く大人になりたいと思った。

 全力さんが、本当にオワコンになってしまう前に。


「さあ、帰って夕食ニュー速だ!」


「食べ物の話より、アニメの話をしようよ。チャー研でもいいからさ」


 そのチャー研のボケなのだが、通じなかった。まあ、ニュー速自体がオワコンだから仕方ない。アケミがまだ赤ん坊の頃、全力さんは村の皆から愛されていた。でも今は、ギャグの寒いただの老人だ。


「チャー研なら、やっぱボルガ博士やな」


 全力さんは気を取り直してそう言った。


「ボルガ博士なら、殺されたよ」


「気にするな! 人類とて必死だ、それくらいはやるだろう!」


 全力さんは魔王の台詞で返した。全力さんは昔は罫線屋チャーティストだったが、今はチャーケニストなので、チャー研の台詞で会話をするくらいの事はお手の物なのだ。


「まあ、他のキャラも色々ひどいしね」

「そうやな。だが、世界を狙うとるのは精神病院の院長だけや。えらいやっちゃで」

「このミサイル一個で、ヨーロッパの半分が無くなる! だっけ?」

「人類の滅亡は数秒で決まる。世界を灰にして、新しい帝国を築くのがワシの長年の夢だったのだ!」


「そういう事に協力を惜しまないのが、我々ジュラル星人だ」


「やるやないか、アケミ!」


 お約束にはお約束で返すのが礼儀とはいえ、アケミも次第にチャー研の世界観に侵されつつあった。全力さんはほくそ笑んだ。


「チャー研はこの辺にしとくか。エヴァの話はどうや?」

「そうだね。カヲル君のことを話してよ」


 アケミは、ヲが上手く発音できなかった。


「あいつは二十四話になってようやく出てきたんや。オープニングにはずっと出とったんやけどな。イケメンで、ホモっぽうて、二号機も操れる手に負えん奴やった」

「腐女子が狂喜乱舞したんだよね?」

「ああ、彼はシンジの事が大好きでな。自分の命を捨ててまで、シンジを守ったんや。それからシンジは、ずっとカヲル君の死を引きずっとったよ」


 アケミは腐女子がどんなものだが知らなかった。でも、全力さんのいう事は、とにかく何でも暗記するようにしていた。全力さんの事を尊敬していたからだ。


「アンノって、すごい監督だったんだよね?」

「ああ」

「ミヤザキも認めてたって、親父が言ってた」

「そりゃあ奴が、クシャナのファンだからよ。表向きは否定しとるが、もし奴がナウシカの続編を作りたいって言えば、もろ手を挙げて歓迎するに違いない」

「本当は誰が一番なの? ホソダ? シンカイ? それとも、カワモリ?」

「皆、同じくらいやな。けれども一番イカレてるのは、間違いなくカワモリや」

「一番腕のいい漁師は全力さんだね?」

「いや。もっと腕のええ奴は何人もおる」


クォ・ヴァディスとんでもない


 少年はいった。


「そりゃあ、なかなかの漁師はいるけど、一番すごいのは全力さんだよ」

「嬉しいこと言うてくれるなぁ。その褒め言葉に見合うような、すごい魚を釣ってくるよ」

「全力さんは今でも強い。そうだろ?」

「いや。わしゃ今でも可愛いけど、自分で考えるほど強うはないかもしれん」

「可愛い方を否定しようよ、全力さん」


 勿論、それはボケだった。全力さんなりに、人間になってから色々学んだのだ。だが、大物を釣り上げようとする気持ちだけは本当だった。やり方は色々あるし、その覚悟もある。


「海に出るなら、もう寝たほうがいいね。僕、食堂に色々返してくるよ」

「そやな。もう寝るか。朝になったら起こしに行く」

「全力さんは、僕の目覚まし時計だ」

「そやな。猫の時も、ひーちゃんをよう起こしとった」


 それは、朝ごはんを準備させるためだった。夜のうちに準備すると、夜ごはん第2になってしまうからダメなのだ。全力さんは毎朝、相方のひーちゃんを起こし、食べ終わったらまた寝ていた。毎日、とても幸せだった。


「なして年寄りは早起きなんやろ? 一日を長うするためかなあ」

「分からないなあ。分かるのは、子供は朝寝坊でなかなか起きないってことだよ」

「大丈夫、ちゃんと起こしたるよ」

「ありがとう。僕、親方に起こされるのは嫌なんだ。なんだか手下みたいだからね」


 今となっては、自分の方がアケミの手下かも知れないなと全力さんは思った。


「おやすみ、全力さん」


 少年は出て行った。全力さんはズボンを脱ぎ、暗闇の中でベッドに近づいた。新聞をズボンで巻いて枕にする。全力さんはすぐに眠りに落ち、猫だった頃の夢を見た。

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