第二話「全力さんと合百」
「明日はええ天気になりそうやな」
「どこまで行くの?」
「ずっと遠くまでや! でも、風が変わったら戻る。明るうなる前に外洋まで出られるとええけど」
大物狙いなら外洋だ。強くてデカい魚は、いつだって外の世界に居る。
命を落とす危険もあるが、そんな事は百も承知だ。
「僕も親方に、外洋まで出られるように頼んでみるよ。そうすれば、全力さんが凄い大物を引っかけた時、手助けに行けるからね」
「あいつは遠出したがらんと思うよ」
「大丈夫。親方には見えないものでも、僕なら見つけられるからね。たとえば、鳥が獲物を探しているところとか」
「あいつの眼は、そがいに悪いんか?」
「今はほとんど見えてないはずだよ」
「そうか。あいつは、ウミガメ獲りはいっぺんもやらんかったはずやけどな……。あれをやるとめっさ眼に悪い」
全力さんは若い頃、
「でも、全力さんは三年もウミガメ獲りをやってたのに、物凄く眼がいいよね」
「わしゃあ、元々猫じゃけぇな。それにおかしな年寄りだ」
「そうだったね」
少年は笑った。
「大物とも戦える?」
「大丈夫や。釣りは頭やからな」
「道具を片付けようか? それから投網を持って、イワシを獲りに行くよ」
二人は船から道具を取り出した。全力さんはマストを肩にかつぎ、少年は木箱とギャフと柄つきの銛を運んだ。木箱には、縒りの強い茶色のロープが渦になって収まっていた。餌にする魚を入れた箱は、棍棒と一緒に船尾のほうに残しておいた。棍棒は大きな魚を船べりまで引き寄せた時、トドメをさすために使うものだ。
二人は、全力さんの棲家である粗末な小屋まで歩き、中へ入った。全力さんは帆を巻きつけたマストを壁に立てかけ、少年はその傍に木箱や、その他の道具を置いた。マストは一つしかない部屋の奥行きと同じくらい長かった。
小屋は、
かつては、色あせた えっちゃんの写真も飾られていたのだが、それを見るたびに全力さんは淋しい気持ちになったので、取り外してしまった。その写真は、部屋の隅にある箱の中に大切にしまってある。
「何を食べるの?」
「魚の混ぜご飯があるよ。アケミも食べるか?」
「僕は家で食べるよ。火を起こそうか?」
「いや、後で自分でやる。別に冷たいままで食うたってええんや。わしゃあ、元々猫じゃけぇな」
「投網は持って行っていい?」
「ああ……」
網は無かった。網を売ってしまった時のことは、アケミもよく覚えている。しかし二人は、この虚構を毎日繰り返していた。魚を混ぜた飯も無い。アケミはそれも知っている。
「一五〇ってなぁ、ええ数字や。明日は必ず大物を釣ってくるで!」
「じゃあ僕は、投網を持ってイワシを取ってくるね。全力さんは、戸口の日の当たる所で座ってて」
「ああ。昨日の新聞があるけぇ、相場の記事でも読んどる」
昨日の新聞というのが作り話なのかどうか、アケミには分からなかった。しかし全力さんはベッドの下から、確かに新聞を取り出した。
「酒屋でトサナミがくれたんや。バックナンバーも一年分あるんやで。引け値は全部頭に入っとる」
全力さんはそう説明した。トサナミという男は、この村にはいない。全力さんの頭の中には、ヴァルダさんとか、ひーちゃんといった、アケミの知らない人たちが沢山住んでいた。
「イワシが獲れたら戻ってくるよ。僕の分と一緒に氷に乗せとく。そうだ! 戻ってきたら、何かアニメの話でも聞かせてよ」
「アニメかー」
全力さんは少し考えて、チャー研の名台詞を吐くことした。
「これから、毎日家を焼こうぜ」
チャー研というのは、今から何十年も昔に作られた超・低予算アニメの事だ。主人公の研が、地球征服を狙うジュラル星人を、正義の名の下に一方的に惨殺していくだけのアニメである。ジュラル星人の中には、ジュラル星の高度な知識を人類に与え、地球で共存しようという者も居るのだが、研はその言葉には一切耳を貸さない。問答無用で殺戮を繰り返す。
その理不尽さが、一部の大きなお友達に受けた。
「小僧、派手にやるじゃねえか? どうだ警察に知らせてやろうか?」
「や、やめてください! ぼっ、僕はただ!」
アケミが真似をしているのは、放火少年の雄一君である。チャー研の何が面白いのか、アケミには全く理解できなかったが、全力さんが大好きなアニメなので、一生懸命、台詞を記憶したのだ。
「はは。ばらしゃしねえよ。その代わり毎日ドゥンドゥンやろじゃねえか! 手を貸すぜ!」
「そんな……」
「文句ねぇだろ! 言うとおりにしねえと警察にばらすぞ!」
「あ、待ってください! 待ってください!」
その先の台詞を、全力さんは忘れてしまった。
もう一度見たくても、全力さんの家には電気も来てない。
アケミは少しホッとした。そのお話の中では、雄一君は全ての罪をジュラル星人に押し付け、自身は無罪放免になるのである。まさに、死人に口なしだ。とてもじゃないが、子供向けのアニメではない。
「とにかく、何かアニメの話を聞かせてよ。戻ってきたら聞くからさ」
「アニメはもうやめよ。
「いいね」
合百というのは株価を使った博打の事だ。一番単純で人気もあったのは、平均株価の終値を当てるものだった。掛け金は一口十ドルで、何口でもかけられる。バッチリあてるのは無理だから、正解に近い三口までが当選になる。外れれば当然一円も帰ってこない。
「でも、百五十七ドルのほうがいいんじゃない? 全力さんの
「あがいなこたぁ、二度と起きんやろ。一五〇ドル高を一口買える?」
「大丈夫」
少額で張れて、当たればぼろ儲け。それがこの博打の人気の秘密だった。誰にでもできる博打だから、村の中ではとても人気がある。配当は掛け金の総額で変わるが、一等が当たれば、最低でも三百倍はつくからだ。二等でも百倍。
だが、誰でも出来るからと言って簡単な訳じゃない。
一口で当てるのは至難の業だ。
「十ドル借りる当てはある?」
「それくらい、僕が出しとくよ」
「ありがと。しかし、まあやめとこ。最初は借りとるつもりでも、気が付きゃ物乞いや。アケミとは揉めとうない」
アケミが初めて船に乗った頃の全力さんは、釣りだけじゃなくて合百も上手かった。三口全部を当選させた事もあるくらいだ。当選金を貰ったら、皆に必ずお裾分けをする。皆が博打を止めてしまうと、配当が減るからだ。
「全部勝とうと思うたらいけん。上手く負けるのがコツなんや」
それが、全盛期の全力さんの口癖だった。普段は一枚か二枚しか買わず、正解に近づいて来たら大きく賭ける。そういう時の全力さんはまず外さなかった。そして、当選したらしばらく休んで、また一枚か二枚から始めるのだ。
一口でいいから賭けたいんだろうなと、アケミは思った。勿論、一発勝負の、たった一口の予想が当たるわけがない。だけど、それでいいのだ。くじが外れれば、明日の漁の方にその分ツキが回るだろう。全力さんはきっと、そんなふうに考えているはずだ。
「僕が自分で買っておくよ。もし当たったら、何かご馳走してあげるね」
「一枚で当てる自信はないよ」
「予想屋に文句を言う奴はいないさ。それに、全力さんには実績がある」
「そうやな」
「暖かくしといてね、全力さん。もう九月なんだから。じゃあ僕は、イワシを獲りに行ってくるよ」
「気ぃつけてな」
アケミを見送りながら、全力さんは思った。
十年前のわしなら、幾らでも金を借りられた。釣果で必ず返せたからや。でも、今のわしに金を貸す奴はおらん。合百の一口を買う金さえ、アケミに出させてしもうた。
「一発逆転の大物狙いは、ボンクラのすることや」
全力さんは独り言ちた。それでも全力さんは、大物狙いを止められない。ご飯を食べられない事よりも、漁師としての腕を信用して貰えない事の方が、全力さんにはずっと辛かったからだ。
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