第一章「人間になった全力さん」編

第一話「オワコンの全力さん」


「わしゃ昔、猫やったんや。ごっつう可愛い三毛猫やったんやで」

「またその話かい?」


 少年は答えた。


「正確にゃあ、猫の形をした悪魔やけどな。悪魔ちゅーても、別に悪いこたぁせえへん。ちょいと食い意地が張っとるくらいや」


 全力さんが言うには、魔界で平和に暮らしていた全力さんは、ヴァルダという女に、突然召喚されたのだという。ここからずっと遠くにある日本ヤーパンという国の、古めかしい古書店にいたそうだ。


 全力さんは、その店で常連客相手に漫才をやりながら、楽しい日々を送っていた。ところがある日、ヴァルダがどこからか仕入れてきた小さな京漆器が爆発して、意識を失ったのだという。その箱は、『人生を変える箱』という触れ込みだった。


 目覚めた時には、全力さんはこの土地に居て、しかも人間の若者になっていたそうだ。当時の全力さんは結構な美少年だったので、色んな人から可愛がられていた。元々猫だったせいか、魚釣りにも才覚があって、人に分け与えるくらいにたくさん魚を獲ったそうだ。

 

 けれども、時の流れは残酷だった。二十年近い時が経ち、初老となった全力さんは独りで漁をしていたが、一匹も釣れない日が、もう五ヶ月も続いていた。最初の二ヶ月は、目の前に居るアケミという名の少年と一緒だった。しかし、獲物の無いままに二ヶ月が過ぎると、両親が少年に告げた。


 全力さんはもう完全に「オワコン」なんだ、と。


 オワコンとは、すっかり運に見放されたということだ。アケミが両親の言いつけ通りに別の船に乗り換えると、一日で三匹も立派な魚を釣り上げた。全力さんが毎日空っぽの船で帰ってくるのを見るたびに、アケミの心は痛んだ。


 アケミはいつも全力さんを迎えに行く。巻いたロープや、ギャフや、帆を巻きつけたマストなどを運ぶ手伝いをするのだった。粉袋で継ぎあてされた帆はボロボロで、まるで海の神様への降伏を示す白旗のようだった。


 全力さんは細くやつれ、首筋には深い皺が刻まれていた。頬には、熱帯の海に反射した日光によって、褐色のシミができていた。シミは顔の両側に首近くまで連なっていて、まるで本物の三毛猫みたいだった。


 両手には、大きな魚の食らいついた深い傷痕がいくつもあった。しかし、その傷痕は新しいものではない。風に侵食された砂漠のように、古い古い傷痕だった。


 あまり食べていないせいか、全力さんはもうマトモに体も動かなくなっていた。ただその両眼だけは、いまだ光を失ってはいない。猫だった時と同じく、全力さんの眼はキラキラと輝き、喜びと不屈の光をたたえていた。



「全力さん!」


 アケミは、船を着けた岸の斜面をのぼりながら、全力さんに呼びかける。


「また一緒に行きたいな。お金も多少貯まったし」


 全力さんは幼い頃から少年に漁を教えてきた。アケミは全力さんを慕っている。


「あかん。こんなの船はついとる。仲間を変えんほうがええ」

「でも僕らは、百五十七日も不漁だった後で、三週間も毎日大漁だったことがあったじゃないか!」

「あったな。あと一週間で記録更新や」


 全力さんは追い打ちを喰らった気分だった。あの時は沿岸の工場廃液で湾内が汚染されて、全員不漁だったのである。確かに一時的に生活は苦しくなったが、当時は皆同じ状況だったし、因果関係が立証されて後でがっつり補償金が出たのだった。


 急に大漁になったのは、強烈なハリケーンがやって来て、湾内の毒を全て外洋に持ち去ってくれたからである。おまけに逃げそこなった人間や家畜の肉を求めて、魚たちが湾内に殺到した。つまり、生き残った連中は皆、大漁だったのだ。


 けれども、そんな大人の事情を目の前の少年に話したって、何にもならない。

 余計に気を遣わせるだけだ。

 

「気にせんでええ。こんなが船を変えたんなぁ、わしの腕を疑ごうたからじゃないんやろ?」

「親父が、網元に言って船を変えさせたんだ。僕は網子だから、従うしかないんだよ」

「分かっとる。当然のこっちゃ」


 ツキが無いのか、腕が落ちたのかは分からないが、今この村で不漁なのは全力さんだけだった。最低限の釣具だけを残して、生活のために売れるものは皆、売ってしまった。オワコン扱いされても仕方ない。


「親父には、信じるってことができないんだ」

「そうやな」

「でも、全力さんはオワコンなんかじゃない。そうだろ?」

「勿論や」


 全力さんは言った。


「ヴァイマール食堂でビールをおごらせてよ。道具はその後で運ぼう」

「ええよー。どんな時でも奢りは大歓迎や!」


 二人は食堂の店内で腰をおろした。数人の漁師たちが全力さんをオワコンとからかったが、全力さんは怒らなかった。年配の漁師たちの中には、今の全力さんを見て悲しむ者もいた。昔の全力さんはとても可愛くて、漁も上手だったからだ。しかし彼らは、その気持ちを表には出さず、潮の流れや、釣り場の水深や、天気のことばかりを穏やかに話すのだった。


 その日収穫のあった漁師たちはとっくに戻っていて、カジキの処理を済ませていた。彼らは二枚の板いっぱいにカジキの身を並べ、板の両端を持って、よろめきながら倉庫へと運ぶのである。市場に運ぶ冷蔵トラックが来るのを、そこで待つのだ。


「全力さん。明日使うイワシを獲って来ようか?」

「ああ……」


 全力さんはグラスを持ったまま、まだ猫だった時のことを考えていた。


「いや……。こんなはアニメでも見とるとええ。わしゃ、まだ一人でやれるよ」

「僕が行きたいんだよ。一緒に漁に行けないなら、せめて別の事で役に立ちたいんだ」

「ビールを奢ってくれたやん。もうそれで十分やって」


 全力さんは言った。本心だった。アケミにはツキがある。そのツキを奪ってはいけない。


「全力さんが、初めて僕を船に乗せてくれたのは、何歳の時だったかな?」

「五歳や。釣り上げた魚が大暴れしたなぁ。ひどく活きのええ奴で、危うく新品の船が粉々になるところやった。覚えとるか?」

「覚えてるよ。尻尾でバタバタ跳ね回って、船梁ふなばりをぶち壊したんだ。全力さんが、棍棒でぶん殴った時の音までよく覚えてる」

「そうか」

「僕は全力さんに、舳先へさきのほうへ突き飛ばされた。濡れたロープの近くで、船全体が震えるのを感じてたんだ」

「なんで、そがいな細かい事まで覚えとるん?」

「全部覚えてるよ。初めての時から全部」


 そういって、少年は笑った。


「全力さんが、気の狂ったように魚を棍棒で叩いて、まるで狂戦士ベルセルクみたいだった。あたりが血の臭いでいっぱいになったんだ。ちょっと怖かったよ」


 全力さんは少年を見つめた。少年の顔は日に焼け、その眼差しは信頼と愛情に満ちて溢れていた。


「もし、こんながわしの子なら、もう一度イチかバチかの勝負するんじゃろう。でも、こんなは他人ひとの子じゃ。素直なええ子じゃ。しかもついとる船に乗っとる。わしなんかに構わんほうがええ」

「イワシを獲って来てもいい? 餌にする魚も、四匹は用意できるよ」

「今日の残りがまだ残っとる。塩をかけて、箱にしもうてあるんにゃ」

「新しい方がいいよ。四匹持って来る」

「一匹でええよ」


 全力さんは言った。全力さんには、明日こそは上手くいく自信があった。まあ、その自信が当たった試しはないのだけれど、その思いは今、新しい風のように、全力さんの中で強くなりつつあったのだ。


「じゃあ、二匹だ」

「二匹かー」


 全力さんは頷いた。老いては子に従うような気持でいた。


「がめたんやなかろうな?」

「違うよ。ちゃんと買ったんだ」

「そうか、悪いな……」


 全力さんは単純なので、人から施しを受けることを恥とは思わなかった。昔より低姿勢になったと自覚はしていたけど、それが不名誉なことでも、真の誇りを損なうものでもないことも分かっていた。


 昔から、人に尽くされる事には慣れていた。

 今はただ、尽くしてくれる人がいなくなっただけだ。

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