第2話  州都近郊の新聞社にて

 メアリーの末っ娘、ローズ・ウッドワードは、五十代のアンティークな眼鏡をかけた才女風の女性。展示室にいて、メアリー・ティーグの写真について尋ねた私に、娘本人が対応してくれたのだ。

 そしてぶしつけな私の空想――メアリーと笠原選手の交際説――を笑い飛ばした。

「それはあり得ませんわ」


「どうしてですか?」


「母が各地を旅するためビクトリアンヘブンリーを出たのは22才の時でした。でも父とすでに婚約中でした。父と母とは幼なじみで、母が十六才の頃から結婚を前提に付き合っていたそうです。旅の間にも父の元へは度々母からの手紙や絵葉書が届いていたんです。そのラブレターの全ては、まだとってあります」


「失礼しました。幼なじみと結ばれて、お母様はそれは幸せな方だったんですね。一年間色々な土地を訪れてその後、故郷へ戻り、結婚されたんですね」


「それを不思議だと感じる人もいるんです。何せ世界各地を巡った後、故郷の村を一歩も出なかった人ですからね」


「故郷が一番美しいという事が分かったのかもしれませんね。ビクトリアンヘブンリー村は、それは美しい場所ですから」


「そうですね。みんなそう言うんですの。それが一番考えられる憶測でしょう?」


「他に何かあるんですか? 私、昨日、訪れて本当にそう思いました。大変申し上げにくい事なのですが、お母様の亡くなられた後、屋敷はそのままなのですが、どなたも住む予定はないのですか? 外から見ただけでもとても魅力的なお住まいなのに」


「そう……ですね。誰も住む予定はないんです。それは母が旅に出たのと同じ理由からかもしれません。他所よそから来られると、本当に美しい場所だと思うでしょう? でも実際に住んでみると、とても窮屈で退屈な場所と分かります。生活の仕方は至ってシンプルです。写真集の最初の方、見たでしょう? aからjまでのページを」


「ええ。田舎の風景やアイテムですね。素敵だと思いました」


 aからjまでの文字が奏でている詩のような世界を私は確かに素敵だと思った。


「初版は私が生まれる少し前に地元の小さな出版社に母が持ちかけ、ほとんど自費出版みたいな条件で出版されたんです。母の最初の本です。割と話題にはなって都心部でも売られてたんですよ。今はこの新聞社から再販されています」と微笑み、話を続けた。

「ミツバチの羽音しかしない午後、ミツバチの迷い込むのは静かな教会。都会に住んでいる方には素敵に思えるのでしょう。 でもそんなに簡単ではありません。ご存知かしら? シンプルな程、物事って難しいものです。美しい場所は維持するのが大変ですし。それに怖くなるんです。この狭い世界の中だけで人生が終わっていくようで」


 私はローズの言葉を聞いていて、最近何か同じような内容の会話があった気がしたけど、思い出せなくてモヤモヤした。


「あの、Kで記されてある笠原選手の事をローズさんは聞かれてはいないのですか?」


「残念ながら、私は手紙に書かれてある事しか分からないんです。何かしら好奇心がもたげてくる十代からの時期を私は寄宿舎で過ごしましたからね。また、大学を卒業してからはすぐ、大学で知り合った男性と結婚したので、それ以降、母とは年に数回しか会っていません。聞く機会がなかったんですよね。それに二番目の兄の事故があってからは母は外国での話をしなくなりましたし」


「お兄様の事故?」


「ええ。二番目の兄は大学生の時に、私が十五才の時に旅先のパリで交通事故に遭いました。兄弟でいちばん母の昔話をせがんでいた兄です。彼を外国への旅に突き動かしたのは自分とでも思ったのか、それ以来外国での出来事を私達にはあまり話したがらなくなりました」


「お母様からお父様に届いた手紙には日本での出来事も書かれてあったのですか?」


「お見せしましょうか?」とローズは言った。手紙や絵葉書は屋敷の整理の際、いつか書簡集を出版する事を想定して、いったんこの新聞社の資料室に持って来たのだと言う。しかしこの計画は頓挫とんざしているとの事だった。


 私は手紙や絵葉書を見せてもらった。日本の東京にいたのは三ヶ月という、割に長い期間だった。そして日本がメアリーの旅の最後の訪問国となっていた。

 手紙や絵葉書を読んでいるうち、私は書簡集を出版する話が頓挫とんざしている理由が分かったような気がした。それらの文章は正直、退屈で面白くないのだ。メアリーはカメラマンや言葉遊びの才能はあるかもしれないけど、文章は平凡の域を出ていなかった。

 手紙の内容は何処に着いたか、そこの天候はどうであるかとか、どんな食べ物を食べ、どんな人に出会ったか、食事のメニューや人物の職業等を書いてあるだけ。しかも食事のメニューについては割に詳しく書いてあるのに、人物については良い人だとかざっくり書いてあるだけだ。


 日本では、プロ野球球団の練習場の近くに滞在していたようで、手紙にもその練習風景を写した写真が同封されていたが、くだんのKこと笠原選手についても、「彼は正直でフランクだ」、「ジェイズの勇敢なエースピッチャーだ」位。唯一、「最初、彼は青年でなくて少年かと思った」というのが特徴的な見解と言っていいかもしれない。ローズは年代ごとに仕分けしていた写真を見せてくれたが、そこにもモノクロの野球の練習風景の写真がたくさんあった。笠原選手の写真も色々あるも、特にメアリーとの親密さを示すようなものではなかった。


「先程、幼なじみと結ばれて幸せな人だと、母の事をおっしゃっていただき、ありがとうございます。まるでおとぎ話みたいでしょう?」


「ええ。なかなか無い事です。私にはうらやましく思えます」


「そうですか? 私は、母が旅に出たのは、父との結婚に躊躇ためらいがあったからなのだと認識しています」


「お父様の方の片想いから始まったとかですか?」


「いいえ、最初は母の方が夢中だったみたいです。十一才の頃……」


「あら、おマセだったんですね。ま、十一才はそんなものですけどね」私が言うと、ローズは苦笑いした。


「母とは同性のせいか逆に気恥ずかしさがあって、聞けなかったんです。父との方がそんな会話をしてて……」  


「そうなんですか?」


「そうですよ。最初は母が夢中で、ピクニックデートに誘うけど、あの村は人口が少なくて何でもすぐ知れ渡るから父はイヤだったそうなんです。でも母は料理が得意だからバスケットの中のサンドイッチや何かが目当てで、デートOKしたそうなんです。だからなるべく離れて歩いてたとか」


「うわ。悲し」


「でも年頃になると、母はどんどん綺麗になっていくし、華やかでみんなの中心にいて、父は置いてきぼりみたいになって、十六才には結婚の約束したけど、地元の大学を卒業した母は、結婚式の話をする父に、一人旅に出たいなんて言い出して……。当時、そんな娘はビクトリアンヘブンリーにも他にもあまりいなかったんですよ」


「お父様は心配だったでしょうね」


「母が一年ぶりに帰って来るという日、父は心に決めてました。きっと母をひと目見たら、彼女の心は分かると。だから行った時とものすごく変わって、会った時と表情も見かけも別人みたいだったら、結婚をあきらめて別々な人生をおくろうって」


「結婚したという事は、そうじゃなかった……」


「ええ。村に来る人物は丘を下って来るのが遠くから見えるんです。母は行った時と同じ服で同じように笑って丘を駆け下りて来たって。ただ小麦色に日焼けしてただけだったって」


「それから先はおとぎ話みたいに二人はずっと幸せに暮らしたんですよね」


「ええ。でも私は母が旅に出たからこそ幸せになれた気がするんです。田舎でずっと大人しく過ごしてたら、旅に出ていなかったら全く違った人生だったろうと。それには日本とK選手が関係している気がずっとしていたんです。日本人である貴女あなたなら、いずれそこにある何かに辿り着くかもしれません。私には無理だったけど、お願いしますね。確かアーロンにも会うとか?」


「ええ。今晩アーロンって甥が帰国するとホテルの主人が言っていました」


「アーロンは私達全員が家を離れた後、よく母の元を訪れていたとか。母のいろいろな昔話を私よりもずっと聞いているはずです。では、ホテルの叔父さん、叔母さんも元気なんですね」


 私はさっき思い出せなかったある事を思い出した。つまりローズの言葉に近い内容の会話をした件。


「どうかしましたか?」


「あの、さっき仰られましたよね? 『シンプルな程、物事って難しい』って。それに似たような事をホテルの主人が昨晩言っていたの、思い出したんですよ」


「どんな風に言っていたの?」


「『子どもの頃読まされた本さえあまり理解出来てない』とか何とか」


 ローズは叔父さんらしいとか何とか言って笑っていた。

 私達が話をした新聞社の応接間には、若い頃のメアリーの写真が飾られていた。羽のついた帽子を被った、茶目っ気のある瞳の女性の写真。その隣には凛々りりしく優しげな正装した男性の姿が。

「これが父と母です。私が今、この仕事をしているのは母の影響です。特に母の出した写真集の影響が大きかったんです。本の素晴らしさを教えてもらったという点で。だから初心を忘れないように母の写真をいつも仕事場に置いているんですよ」

 

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