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 次の日、塔子は会社に来なかった。

 高太朗は出社直後、妙な違和感に襲われ、隣の席からキーボードを叩く音がしないことが原因だと気づいて、右隣を見やった。そこには、キーボードからボールペンに至るまでが整然と配置され、椅子もしっかり机に収まった無人のデスクがあった。

 立ったまま首を四方八方に振って周りを見渡すが、塔子の姿はない。

 様子を見かねたように向かいの席に座る定年間近の源さんが「毎年のことだ」と声をかけて教えてくれた。

 源さんによると、塔子は毎年夏前のこの時期、一週間ほど休暇を取るらのが恒例らしい。

「いつもは石塚さんの分の仕事が全部私のとこに来て多少しんどかったけれど、今年は栗田さんもいるから心強いです」

 源さんはご機嫌そうにニコニコと笑った。

「任せてください」

 塔子不在の理由が判明した安堵から高太朗は調子よくそんな返事をしたが、その『増える仕事』の量というのが半端じゃなかった。

 一社でさえ一時間以上かかるクライアントおよび自社サービスのサイト更新が一人三社。それに伴って先方への報告や先々のプレゼントキャンペーンの調整など連絡業務も倍以上に増加。さらに経費申請や当選者へのプレゼントの発送、景品の手配、そのほか郵便物の処理など、塔子が日々粛々とこなしていた細かな雑務も二人で分担して行うことになった。

 サイト更新に至っては普段から自分が担当している分もあるため、合計五社となり、いくら単純作業とはいえ、先を考えると気が遠くなった。

「〝多少〟しんどかった」とか言うから高を括っていたのに。騙された思いで源さんを呪ったが、源さんにとってその表現は『嘘』ではなかった。

 源さんは手元を一切みない流麗なブラインドタッチでキーボードを叩きあっという間に連絡業務をこなすと、続けてサイト更新業務も高太朗の三倍はあろうかというスピードで進めていく。キーボードの打音も滑らかで耳触りも心地よい。

 これまで源さんが仕事に追われている姿を見たことがなかったため、『定年前だから優遇されてる』と決めつけて忌々しく思っていたが、すこぶる仕事が速いため、そう見えていただけだったのだと気づいた。

「源さんてこれまでどんな仕事をされてきたんですか?」

高太朗は立ち上がって向かい側の席を覗き込みながらきいた。

源さんは意外そうな顔で高太朗の姿を見上げ、数秒ののち、笑みを浮かべて再び顔をパソコンのモニターに向け直した。

「系列会社で長年エンジニアをしてましたが、若手育成の方針とかでお払い箱になってここに転籍してきたんです」

 高太朗は合点がいき頷いた。

「だからそんなにキーボードを打つのが速いんですね。でもそこまでの経験があったら別の会社でエンジニア続けることもできたんじゃないですか」

「そうかもしれませんね。ただ、うちはそのときすでに家内の体調があまり良くなかったので、全く文化の違う会社に移ってそこに順応するという負荷を自分自身にも家族にもかけられる状態ではなかったんです」

「なるほど」

「後ろ向きにとらえないでくださいね。これまでの貢献を評価した充分な給与をもらえて、事情に配慮して頂いた定時であがれる業務を用意してもらってるんですから、感謝しかありませんよ」

 その口調は穏やかで柔らかい。

「それに、こうやって今の自分の状況に合わせてできる仕事で誰かに少なからず貢献できているんですから、本当に嬉しいことです。仕事でそれ以上に価値があることなんてありませんから」

 源さんはそこまで言うと、話しすぎたことを少し悔いるような表情をみせて「栗田さんも早くやらないと帰れなくなっちゃいますよ」と言って、姿勢を正し再び仕事への集中を高めた。

 やりとりが途切れ、そんな源さんの様子を見つめながら、高太朗は自身の境遇のことを嘆いてばかりいる自分自身を激しく恥じる気持ちが込み上げてくるのを感じた。

無言のままおもむろにオフィスチェアに腰を下ろし、パソコンのマウスを操作する。目についたファイルを開き、葛藤から気を逸らすように急いた調子でキーボードを叩き始めた。


 大量の更新業務と雑務に追われるうちにあっとういう間に数日間が過ぎ、塔子不在の体制最後の金曜日を迎えた。

 高太朗も三日目あたりからペースを掴んでルーティンが生まれ始め、五日目からは単調な作業の中にもちょっとしたレイアウトのクオリティにこだわるなど、自分なりの楽しみを見い出しつつあった。

 一方で、この数日間の中で感じたのは塔子の存在の大きさだった。これだけの業務を涼しい顔して一人でこなし、さらに他のメンバーのフォローまでしていたのかと思うと、素直に頭が下がる。

 聞くところによると、通常の規定業務以外に直属の上長である横川執行役員に呼ばれて別の業務も請け負っていたというから、その忙しさはいかばかりだろうか。そんな仕事量を毎日定時までの間にやりきることを考えれば、確かに話すひまなんてないのかもしれない。

 そんなことを考えながらキーボードを叩き続け、更新作業も佳境に入った時、スマートフォンに有里からメッセージが届いた。通知画面には横長の四角い吹き出しのなかに『サイトのデータ登録作業ヘルプお願いできない?助けて』と表示されていた。

その後、直接話をしに来た有里に聞いたところでは、今日中にクライアントに提出するデモサイトへの記事データの登録が終わらないため手を貸してほしいとのこと。依頼された量は一人でやったら終電を過ぎるであろうことは容易に想像できるボリュームだった。

「私も手伝いますよ」

 向かい側の席で高太朗と有里の話しを聞いていた源さんが声をかけてきた。

「いや、良いですよ。体調崩されてる奥さんが自宅で待たれてるんですよね?」

 先日聞いた話を思い出して高太朗は言った。

「いえ、家内は一昨年に闘病の末亡くなりました。だから、私も家に待ってる者は誰もいないんです。手伝わせてください」

 高太朗は不意に明かされた事実に対する驚きと不躾なことを言ってしまったという自責の念で言葉に詰まり、状況的に申し出を受けてしまったような形になった。

 その夜、二人は通常の業務を終えたあと有里から請け負ったデータ登録作業を手分けしてひたすら行い続けた。ほとんど休憩も取らずに作業に従事し、どうにか目処が付いたのは終電もほど近くなった時刻だった。

「柄でもないですが、これ奢りです」

 高太朗が一通り登録作業を終え、休憩スペースの椅子で休んでいるところに、源さんが自販機で買った缶コーヒーを差し出した。

「え、いや、そんな……ありがとうございます。いただきます」

予想だにしない展開に戸惑いつつも、缶コーヒーを受け取る。

 源さんは自分の分の缶コーヒーのプルトップを開けながら隣の椅子に腰掛けた。

「この前話したあの話ね、あの『仕事のやりがいは誰かに貢献すること』みたいな話」

 源さんがおもむろに切り出した。高太朗は少し思案し、それが塔子不在の体制初日に源さんが話してくれた仕事観めいた話のことだと思い当たった。

「栗田さんは若いからそんな風に思えなくたって良いんですよ。私も昔から物分かり良くそう思えたわけじゃないんです。愚痴言って不満言って、それでもギリギリ踏ん張って働いて生きてきて、じりじり亀のように歩いてきた先に今そう思ったっていうだけなんです。もっと長く生きてみたら、それこそ明日には違うことを言ってるかもしれない。だから本当にそうやって右往左往していつまでも迷いながら、一マス一マスカレンダーを埋めるように目一杯生きていけば良いんです」

 源さんは、誰かに言い聞かせるように虚空を見つめて懸命に話し続けた。高太朗はそんな源さんの横顔を見つめて話を聞いた。するとふと、源さんが微かに眼差しを強くし、彼方に思いを馳せるような目をした。

「もがくだけもがいて嘆くだけ嘆くのも醍醐味ですよ。死んでしまったらもうそんな話もできないんですから」

 源さんはまた柔らかな目で虚空に向き合い、缶コーヒーを一気に飲み干した。

 オフィスビルの十五階から見える夜の渋谷には無数の明かりが灯り、静けさに包まれて眺めるその景色は荘厳な趣があった。

「そういえば源さんカレンダーもらいました?ユーザープレゼントの景品のカレンダー、うちのチームだけ特別に一つずつもらえるらしいですよ」

 源さんの話に出てきた『カレンダー』の例えに誘発されて、高太朗は先日ユーザーに送付したカレンダーの話題を口にした。

「おお、今年はカレンダーだったんですね。あれ毎年石塚さんが企画して、梱包する人以外誰にも漏らさないから私今年は何か知りませんでした」

 高太朗は何かが噛み合っていないような違和感を感じた。次の瞬間、視界が揺らぐような感覚が襲い、自分は不意に事の真相の突端に触れてしまったのではないかという予感が全身に広がっていく。

「あれ、どうしました?」

 目を見開いたまま固まった高太朗に、源さんがおののいた様子で声をかける。

『これ社内でまだ私たち以外の人たちは知らない機密情報よ』

 確かにそう言っていた。

 高太朗はおそるおそる自販機の方を見る。

 自販機にはボロボロになり今にも剥がれ落ちてしまいそうな『情報管理の徹底』を謳った張り紙が貼られていた。

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