7
週明けの月曜日。表立ってこそいなかったが、社内はどこか不穏な空気が漂っているように思えた。誰も口にこそ出さないものの、皆がそれとなく周囲の様子を伺っている風に見えてしまう。
それぐらい昨夜流れたニュースは衝撃的で、社員を困惑させるには十分なものだった。
昨日、この会社のデータベースへの不正アクセスを繰り返していたとして、主犯とみられる違法業者の数人が逮捕されたというニュースが報じられた。
そこまでは良かった。いや、けして良くはないが、想定内だった。
だが、報道はそれにとどまらず、社内にも協力者がおり、警察がその人物にも任意で聴取する方針であることを伝えた。在京のテレビ局のうち一社は事前に情報を得ていたのか、『その人物』を聴取前に取材した映像をニュースで流した。
もちろん顔は映っておらず、音声も加工してあったが、全体のシルエットや語り口のテンポで、近しい同僚には当該の人物が誰か推察することができてしまう。何よりスーツ姿の『彼』が締めている濃紺の生地に赤いラインの入った特徴的なネクタイがそこにはハッキリと映っていた。
映像で直撃取材を受けていた『人物』、それはおそらく大崎拓也だった。
その映像が流れた直後から同僚間では連絡が回りはじめ、高太朗にも何件か連絡があった。
有里と武志からもスマートフォンにメッセージが入り、互いの認識が同じであることを確認した。それ以上は、動揺から思考がうまく展開されず、スタンスを窺いあう当たり障りのないやりとりを幾つか交わすことしかできなかった。
拓也を羨み、忌々しく思うことがあったのは確かだ。しかし、いざ近しい人物が公衆の面前で『悪人』として晒されているのを目の当たりにすると、現実が一遍に塗り変わってしまったような、反射的に受け入れることを拒絶させるような空恐ろしさがあった。
今こうしていても、塔子が右隣の席でキーボードを叩いている代わり映えのないオフィスの光景を前に、昨日見たあの映像は自分が妄想によって捏造した記憶なのではないかと思えてくる。表向きは何一つ変わっていないのに、一つのきっかけで世界の在り方が決定的に違ってしまうことがあるのだと知った。
「なんかおかしいとは思ってたんだけどね」
昼休みに入ったファミレスで有里が口を開いた。
「私が目星つけてた会社には必ず先に拓也がアポ取ってたし、いくらなんでも営業先のリストアップが早すぎると思ってたから。あれが他の社員のデータベースから引っ張ってきてたと考えると合点もいくっていうか」
「んーでも、いくら自分に旨みがあったとしても、外部の違法業者とつながってまでそんなことしてたなんて、やっぱり信じられないな」
武志がまだ事態を飲み込みかねるといった様子で話す。
ニュースで報じられたところでは、社内の協力者とされる『その人物』は、何らかの形で社内システム侵入の手引きを持ちかけられ、数百万の報酬と自分が希望するデータの譲渡を条件に協力を承諾したとされていた。
「でも、なんで拓也だってわかったんだろ」
有里が再び口を開いた。
「だってニュースだと、パスワードやデータのやりとりも紙のメモやフラッシュメモリだったっていうし、パスワード自体もその『協力者』本人のものじゃなくて、違う人のだったんでしょ。それだと証拠隠滅しちゃえば足がつかないっていうか」
「違法業者のヤツが警察に吐いたとか」
武志が推測を差し挟む。
「マスコミが違法業者の逮捕前に拓也のところに押しかけてたことを考えると、その可能性は低いと思うんだよね」
「確かにそっか」
「拓也は入社以来ずっと優秀だったから、そんなことして業績を上げる必要があるって社内で疑っていた人もいなかったと思うし」
「だよなあ」
有里と武志は同じように腕を組んで俯き、押し黙ってしまった。
「もう一人『協力者』がいて、その人物がリークした」
沈黙を破って高太朗が神妙な声で言った。二人が同時に顔を上げる。
「パスワードやデータを物理的な手段でやりとりしていたのであれば、拓也はどこかで関係者と接触していたはず。そして、そもそも違法業者は拓也がうちの会社の社員だと知った上で話を持ちかけている。そう考えると、もう一人誰か会社内部に通じている人物が違法業者と繋がっていて、拓也と違法業者を繋ぎ、データのやりとりなどもその人物を介して行われていた可能性が高い」
「その『もう一人の協力者』が、自分の存在から目を逸らさせるために、前もってマスコミに拓也の情報をリークした」
有里が高太朗の言葉に継ぐように続けると、高太朗も静かにうなずく。
「警察やマスコミの目が拓也に向いている間に、どこかに姿をくらます算段だと思う」
「そのもう一人も社員てこと?」
武志が疑問を口にする。
「おそらく社内の状況をある程度把握しつつも、表立っては拓也と接点のないような、他の社員からは個人的な背景を知り得ないような人物」
高太朗は確信めいた口調で答える。
「それって一体……」
有里が困惑気味につぶやき高太朗を見る。
高太朗は俯きしばし思案して、誰もいない右隣の席に目をやった。
◆
夜の入り口に差し掛かった時刻、喫茶店は思いのほか混んでいて、満席に近い盛況ぶりだった。
高太朗はテーブルと人をよけて進み、店の奥にある端の席まで辿り着くと、おもむろに椅子を引いて腰を下ろした。
テーブルを挟んだ向かい側の席でバッグに何やら道具をしまっていた塔子は、異変に気付いて顔をあげ、高太朗の姿を認めた。
「あら珍しいわね。こんなところで」
のんびりとした調子で言った。
「いつからですか」
高太朗が押さえきれない様子でやや強い語気で切り出す。
「いつから、拓也が不正アクセスに関わってるって気付いてたんですか」
塔子は少し意外そうな顔で高太朗を見つめた。
「石塚さん、不正アクセスの件に関して、社内で噂になり始めてから昨日の逮捕報道に至っても、一切動揺する素振りさえ見せなかった。それに、誰も拓也のことなんて疑ってなかった時期から、何かを見通したように拓也の月間新人賞受賞に対して〝身の丈に合わない〟ってはっきりと評してた」
一度言葉を切り、続ける。
「最初は事件に興味がないだけかなと思ってたけど、この顛末を想定していたなら落ち着き払った態度も拓也への言葉も合点がいく。もしかして、ずっと前から不正アクセスの真相に関して察しがついてたんじゃないですか」
そこまで聞くと、塔子は居ずまいを正して真剣な表情で高太朗に向き合った。そして、一度小さく呼吸をして口を開いた。
「大崎さんが関わってるかどうか確信はなかったわ。でも彼の動きが気になり始めた時期は、不正アクセスの問題が持ち上がってからすぐね」
「どうして」
高太朗は食い気味に言葉を被せる。
「彼がその前後から突然早朝に出社するようになったからよ」
塔子が端的に答えた。
「この十年間、ほとんど同じ時刻に出社してきた私にとっては目立ちすぎる変化だった。それまであんなに毎日早朝に出社してくる人、私以外にいなかったもの」
適度にざわつく店内で、その声は紛れることなく明確な輪郭をもって耳に届く。
「彼、不自然にフロアをうろついたり、身を潜めるようにしてパソコンで何か作業したりしてた。まあ向こうは私の存在なんて気にもしてなかったと思うけど」
高太朗の脳裏に居酒屋で早朝出勤していることを自嘲気味に語っていた拓也の姿が浮かんだ。
「早朝に来てた理由は、作業を人に見られないためと他の人のパスワードをどうにか手に入れるためってとこかしら。いるじゃない、何度ダメだっていっても、忘れちゃうからって付箋とかに自分のパスワード書いて机とかモニターとかに貼ってる人」
「それを違法業者に横流ししてた」
「多分ね」
塔子は一息ついて、目の前のカップの底に少しだけ残っていたコーヒーを喉に流し込んだ。
「僕が景品を発送する時、拓也が中身を『カレンダー』って知っていたことは別にポイントじゃなかったんですね」
「あの時にそう言ってるのを聞いて、ほぼ確信になったわ。景品がカレンダーだって知ってたの栗田さんと私だけだから、どちらかのストレージのデータを見たとしか考えられない」
「それで警察に?」
「いいえ。私あの時期不正アクセスの件に関して社内動向の調査を頼まれていたから、まずコンプライアンス担当役員の横田さんに報告したわ」
高太朗が何かに思い当たった顔をした。
「あの頃抱えてた別件の業務ってそれだったんですね」
「さらなる裏付けを進めてもらったら、辞職と自首を横田さんから大崎さんに勧告してもらうはずだったんだけど、先にリークされちゃったわね」
「リークしたのは誰なんですか。その人が『もう一人の協力者』ですよね」
塔子が目を微かに見開いた。
「ご名答。いるじゃない、もう一人『機密情報』を知ってた人が」
高太朗が当惑して考えを巡らせているうちに、塔子は手早く荷物をまとめ、いつも持ち歩いている大きめのバッグを正面に抱えた。
「でも栗田さんは他人のことばかり考えていないで、もっと自分のことを考えた方がいいんじゃない」
虚をつかれた思いで高太朗は顔を上げた。
「事件が解決しようがしまいが、あなたがどうこうできることじゃないんだから。誰かの問題にもっともらしくかまけることで、自分の葛藤から目を逸らしちゃだめよ」
塔子はバッグを肩にかけて立ち上がると、高太朗の横の位置に移動し、うやうやしくお辞儀をした。
「私、明日も早いからお先に」
異を唱える間も、引き止める間もなく、しなやかに素早く扉の方へと歩を進め、塔子は店を出て行ってしまった。
気づくと店内は、勤めを終えた会社員と思われる人たちが次々と来店し、さらに混雑度合いを増している。
高太朗は正面に向き直り、しばし放心した。テーブルの上のスマートフォンには、転職の面接を受けた会社からの「入社承諾」の返事を急かすメッセージが表示されていたが、無造作に端末をひっくり返し、物理的に視界からシャットアウトした。
スマートフォンを置いた丁度向かい側、塔子が座っていた側のテーブルの端に、置き忘れていったのであろう彼女のデスクにある本と同じ作風の装画の文庫本が一冊置かれていた。
何気なく手に取り表紙をめくると、そこには活字で『石塚塔子』という名前が記されていた。
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