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壁にはアンティーク調のブリキの掛け時計。その隣に制服姿の少女が描かれたポップなテイストの絵画。背景となる壁は明るい灰色で、チョークの筆跡を模した線で子どもの絵のような大胆なドローイングが施されている。
定時で早々と退社し、面接のために訪れた真新しいオフィスの部屋は、高太朗の会社とは違い、明確な意図をもって計画されたことを感じさせる空間だった。
面接の部屋に辿り着くまでの道すがらにはガラス張りのオープンなミーティングルームに、カフェのようなスペース、しいては昼寝をするために寝転ぶスペースなどがあり、そこかしこで社員らしき男女がコーヒーを飲みながら和やかに話しをしていた。
会社の創業者の一人であるという面接官の男性も、Tシャツにジーンズにスニーカーというラフな出で立ちで現れ、面接自体も『審査されている』というよりは、少し年上の先輩とフランクに雑談をしているような感覚だった。
「うちは規模もそんなに大きくないし、まだこれからの会社だけど、その分風通しが良いから、希望に沿えると思うよ」
一通り形式的な質問に基づいた話を終え、区切りのついたところで男性が言った。座ったまま椅子のキャスターを滑らせ、壁に備え付けられたホワイトボードの前に移動して、ペンを手に取って続ける。
「うちは社員一人一人を『じんざい』の『ざい』の部分を財産の『財』と書いた『人財』と捉えて、会社の大事な財産として尊重していくことを理念としてるんだ」
男性はホワイトボードに大きめに『人財』と書きつけた。
「単なる駒じゃなく財産だから、一人一人の特性を最大限に活かすことを考えてドンドン仕事を任せるし、積極的に声を上げてくれればできる限り採用する方針。今どき雑用的な作業から下積みするとか有効じゃないし、時間がもったいないよ」
そう語る姿や態度、声は澱みがなく溌溂としている。相手を真っすぐ見つめる眼差しもてらいなく爛々と輝いて、自分の言っていることを一ミリも疑っていないことが伝わってくる。
「そ、そうですよね」
高太朗は少し口ごもりながら相槌を打った。男性とのテンションの差に戸惑いつつも、社風やビジョンに関しては概ね共感を覚える。「時代に合った企業はやはり意識が違うのだ」と心の中で繰り返し、いざ新たな環境を前にすると怯みそうになる自分を鼓舞した。
「正式な合否は一週間以内にメールでさせてもらうけど、僕の中ではOKだから、良い返事待ってるよ。一緒にやっていこう」
高太朗の手を取って強めの握手を交わすと、男性は席を立って扉をあけ、体の向きと視線で部屋の外に出るように促した。高太朗は慌てて荷物を手に持って立ち上がり、ご機嫌そうに先を歩いていく男性の背中に置いて行かれぬよう、足早に扉の方へ向かう。外に出る瞬間、忘れ物などの確認のためふり返って見ると、男性の座っていた椅子が雑然と引かれたままになっていた。
面接先のオフィスを出て渋谷駅まで国道沿いの歩道をあるいた。四車線ある道路には大小様々な車両が最低限の車間距離を保ちながら絶え間なく行き交い、響き合う騒音は得体の知れない動物のうめき声のようになって一帯を包み込んでいる。
暗いなか無数に連なるヘッドライトの灯りに照らされ、ひたひたと歩いていると、通り慣れた道にも関わらず当て所なくたゆたっているように感じた。しばらく茫然とした心持ちで歩き、何度目かのそんな感覚に捉われた瞬間、意識を引っ掛ける突起を探して目を泳がせた先に、高太朗は石塚塔子の姿を認めた。
「石塚さん」
反射的に思いのほか大きい声が出て、自分でも驚く。
雑踏のなか塔子は、高太朗の少し前、カフェの扉を出て駅の方向へと歩き出したところで振り返り、少しだけ見開いた目で高太朗を見た。
「こんなところで何してるんですか」
塔子に歩み寄り、カフェの方に目をやりながら尋ねる。そのカフェは社内で『仕事帰りの石塚塔子をよく見かける』と噂になっている店だった。
「そっちこそ今日は私より先に会社を出て行ったみたいだったけど、随分遅いのね」
自身への質問には答えず、塔子が尋ね返す。
面接の件を告げるのはさすがに気が引けて答えに窮していると、塔子は元々の進行方向に身をひるがえし、渋谷駅の方に向かって足早に歩き出した。
まっすぐに伸びた背筋。踵から一歩一歩踏み締めるしっかりとした足取り。身体の軸がブレずに全身が連動性をもって躍動するその姿は、ただ歩いているだけなのに目を奪われるしなやかさがあった。細くたおやかな線で輪郭が描かれた横顔は、ヘッドライトの明かりに照らされて崇高ささえ感じさせる。
「石塚さんはどうしてあの仕事続けてるんですか?」
並んで歩いているうち、塔子の佇まいにひきだされるように質問がこぼれ出た。それは『思い』が思考を介さず身体を通って出た自然なものだった。
「理由なんかないわ」
塔子は一切の動揺を見せずいつもの落ち着いた調子で答える。
「私は自分で自分を支えたいからそれを叶えてくれる仕事をやっているだけ」
高太朗はさらに浮かび上がってくる思いを躊躇なく言葉にして被せる。
「でもほらもっと自分を表現したいとか、世の中から認められたいとかあるじゃないですか。サイトの更新とか懸賞のプレゼント発送とか、毎日同じようなことの繰り返しじゃなくて、もっと自分で成果をだして評価されたいとかないんですか」
塔子が顔を高太朗の方に向け、眼鏡の奥の眼でじっと見て、再び顔の向きを前に戻した。
「そうなったら良いかもしれないわね。でも、私は自分で自分が何をやってるかを知ってるからほとんどそれで十分」
塔子が足を止めた。高太朗も慌てて止まり顔を上げる。そこはもうJR渋谷駅の前だった。
「じゃあ私JRだからここで」
姿勢良くしっかりと立ち高太朗と向き合って塔子が告げる。
呆気にとられてぼんやりと高太朗はそれを眺める。
「明日もちゃんと出勤してね。そろそろ独り立ちしてもらわないとなんだから」
塔子は矢継ぎ早に述べ、高太朗が返事を勘案しているうちに人の波に紛れて駅の構内へと消えていった。
取り残された高太朗は、余韻の中でしばし佇み、周囲を見渡した。
今日の渋谷は心なしか人が少なく、景色もくっきりと鮮やかに映る。
自然と高揚してくる気持ちに促されるように地下鉄の駅に向かい歩き始め、四方をビルの輪郭に縁取られた濃紺の空を見上げて、少しぬるい空気を大きく吸い込んだ。
「私は自分で自分が何をやってるかを知ってるから」
車のライトに照らされた塔子の横顔と語られた言葉が内側で反芻される。しなやかな歩き姿や普段の凜とした佇まいも連なるように浮かんでくる。信号待ちで立ち止まり、横目に入ったショーウィンドウのガラスには、身長も体型も顔の造作も決して上出来とはいえない自身のうっすらとした姿があった。
高太朗はその姿をまじまじと見つめたのち、ガラスから目を離し、イメージの中の塔子の姿に重ねるように姿勢を正した。
信号機が青に変わる。ひときわ明かりを放つ大型の街頭ビジョンに目をやりながら歩き始め、正面に戻した視線の向こうに地下鉄駅への入り口を認めると、明日の出勤に思いを巡らせ少し歩を早めた。
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