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「急には辞めないでね。私たちにも予定ってものがあるんだから」

 昼休憩前の手持ち無沙汰になった時間、背後からの声に高太朗はパソコンで閲覧していた求人情報サイトのページを閉じた。

 できるだけ平静を装って振り返ると、塔子が無表情で見下ろしている。

二秒ほど見つめ合ったが、堪えきれず高太朗が眼を逸らした。

「手が空いてるなら荷物出してきてくれる」

 塔子は頭を動かし、フロアの扉の方を示した。扉の前では、出入りの宅配業者の男性が、積まれた荷物の登録作業をしている。

 高太朗は先日塔子と二人で梱包したカレンダーの山に思い当たり、慌てて承諾の返事をして、小走りに扉の方へ向かった。


 ここ数日、高太朗の頭の中は転職のことでいっぱいだった。

『辞めれば別の場所に行ける』と一度思い至ってしまうと、その結論ありきの捉え方しか出来なくなり、自身の処遇に対する不満のみならず、社風や一部の同僚たちの馴れ合い、空間に人数分の机を押し込めたような旧態依然としたオフィスなど、目に付くあらゆるものが『自分に合わない』忌むべきものに感じられた。

 空き時間は頻繁に求人サイトを覗くようになり、先日、ある転職サービスから目ぼしい求人に応募もした。今日は退社後、同じ渋谷にある別の会社のオフィスで採用面接を受けることになっている。

「お、カレンダーの発送か頑張れよ」

 梱包された荷物を台車で運んでいる高太朗の肩を拓也が後ろから叩いて、目の前の扉から出て行った。

 これから取引先のところにでも行くのだろう。その軽やかな身のこなしに苦々しさを感じると同時に、正直憧れに似た気持ちを抱いてしまっている自分が悔しかった。

 この前の週末に話を聞いた大学の同級生二人も、IT企業に就職し、すでに仕事をいくつか任されていると語っていた。

 高太朗は、そういった周りの近況に触れるたび、改めて『自分の状況が不当である』という思いを強め、『ここに居ることが間違いだったのだ』という考えへの確信を深めていった。

 荷物を宅配業者の人に引き渡して、登録作業を行っている彼の姿を見ながら、「なんでその仕事をしているのか」と聞きたくなる。

 毎日誰かから荷物を預かって、誰かに届けて、時には怒られたり頭を下げたりして。毎日毎日同じことの繰り返しで、毎日毎日誰かのためばかりに動いて、嫌にならないですか、と。

「では確かにお預かりしましたのでこちら控えになりますね」

 大手宅配業者の作業着を纏った中年の男性は品物の欄に『卓上カレンダー』と手早く書き入れ、笑顔で伝票の控えと領収書を差し出してくる。その姿をどこか憐れみを帯びた思いで眺めながら、高太朗は控えを受け取った。

男性が台車を押しながらフロアを出ていくのを見送って、自席に戻ろうと踵を返すと、視線の先に休憩スペースに入っていく有里の姿が見えた。


「いいんじゃない。辞めるのも」

 有里が俯き加減で事もなげに言う。

 昼時の休憩スペースは賑わっており、ブラインドの隙間から射すぬるい光の中、銘々が思い思いのスタイルで食事をしている。

「よく『逃げだ』とかいうけどさ、合う合わないってやっぱりあると思うよ。拓也みたいにこの会社の水が合っていきいきしている場合もあれば、水の成分自体が合わなくて、この水の中じゃ動くことさえできないってこともあると思う」

 有里は自宅から持参しているタッパーに詰めた生野菜をおもむろに口に運び、顎を使ってしっかり噛み砕いた。どこかぼんやりとした空気が充満している中で、その音が彼女をより鮮明に浮かび上がらせる気がした。

「有里はどうするの?」

「私はもう少しここに居るかな。まだ合う合わないの前にちゃんと水に入ってない気がするから。まだなんか出たり入ったりみたいな」

 有里がそんな状態なら一体自分はなんだろうか。

 湖の前の小屋に軟禁され、皆んなが泳いだりはしゃいだりしているのを窓から眺めている子どもといった感じだろうか。

 迂闊にもそんな光景を想像し、高太朗は侘しさに微かな胸の詰まりを覚えた。

「そういえば会社のストレージに不正アクセスしてた犯人、外部の違法業者だったらしいよ」

 自販機に貼ってある『情報管理の徹底』を謳った張り紙に目をやりながら有里が言った。張り紙は所々微妙によれたり色褪せたりしていて時の経過を感じさせた。

 塔子ら周囲の人間が一切この件に関して動じないため考えることが減っていたが、不正アクセスの件は未だ社内の最重要事項だった。

 同僚間で流れる噂によると、運営しているサービスの十万人以上のユーザー情報と数百の社外秘の業務情報が漏洩した可能性があり、賠償金などを含めて会社の損害は十億円は下らないという。ある程度は経営基盤が安定しているこの会社にとっても、不慮の損失としては相当な痛手となる金額だった。

こんなにも頻繁に促されているにも関わらず、社内を歩いているとまだIDやパスワードを付箋にメモしモニターの縁なんかに貼り付けているのを見かける。たしかに周りに沢山の社員がいる中で誰かの机のメモをじっと見る隙なんてないかもしれないけれど、ただ結局はみんな他人事で、自分に火の粉は降りかからないと高を括っているのだ。

「そのうちニュースにもなるみたい。でも、実行した数人のグループはわかったけど、結局組織が細かく枝分かれしていて、大元がどこかってのはわからないんだって」

「本当にそういう犯罪組織絡みの事件てあるんだね」

「会社のシステムに侵入の際に、取っ掛かりとして社員のパスワードを使った形跡があったから、誰か内部に協力者はいるだろうって見立てみたいだけどね」

 有里はいつの間にか野菜がなくなって空になったタッパーの蓋を閉めて、立ち上がった。

「休憩終わるの早くない?」

 高太朗が尋ねる。

「いま部署全体が関わるくらいの大型案件がまとまるかどうかの瀬戸際でさ、少しの時間も惜しいのよ」

「勝負どころってことか」

 有里は口角を上げて二度頷き「高太朗も面接がんばって」と小声でささやいて、休憩スペースを足早に出て行く。休憩スペースと執務エリアを隔てるガラスの向こうに見えた凛々しい横顔は、意を決して水に潜るダイバーのそれに見えた。

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