第19話 糾弾、救出、そして
「そちらは……?」
「あ、いえ、お気になさらず」
「
「呉服屋……惣衛門……?」
そこらに幾らでもありそうな屋号に、滑らか過ぎる口上。あまりにも物分かりが良すぎて、かえって怪しいことこの上ない。その場所に果たして本当に伊勢屋なる呉服屋があるのか、あるとしてその主人――隠居……? ――の名は聞いた通りなのか、その名を持つのはこの老人なのか。確かめる術は今はないのだ。
名乗られたところで惣衛門なる老人の怪しさが拭われることは一向になかった。だが、当の本人はにこにこと笑みを崩さず、青海屋の方を手で示した。
「はい。この通り萎びた
そう言うと、伊勢屋惣衛門――を名乗る老人は、言葉通りに部屋の片隅に退いた。座布団を自ら引っ張ってその上に座り直す様は、芝居の席を確保するかのようだった。そう思って見れば、老人の目は無邪気な子供のようにきらきらと輝いているような気もする。それこそ、芝居が始まるのを待ちかねているかのような。
予想とは全く違った種類の怪しさに、
(逃げられることはなさそうだから……良い、のか……?)
見た目からして確かに小柄な年寄りだし、暴れる気配もないからひとまず置物と思っておこう。半ば自らに言い聞かせる形で強引に納得すると、隆正は改めて青海屋の主人に鋭い目を向けた。
「青海屋」
「は……ははっ」
「そなたの店には不可解なことが多過ぎる。下問するゆえ偽りなく答えよ」
青海屋の傍らに膝を突いて、顔を伏せたままの相手の顔を覗き込む。敬意や恭順を示すためというよりは、ひたすら追求を恐れ、表情を読まれるのを避けようとする体勢なのだろうが。濃く黒く影が落ちる青海屋の顔の中、見開かれた目玉だけがぎらぎらと光っていた。既にお
「
「それは――そいつは、お
「ならば、なぜ奉行所に届けなかった? 大事にしたくないならば、なぜ信二を蔵に閉じ込め続けた? そのような者は知らぬ、などと嘘を吐いてまで」
「それは……あの、店の評判に関わるから……」
青海屋の額から滴った汗が、畳に染みを作る。隆正が立て続けに問うたことに応えるには、とても足りないと分かっているのだろう。というか、隆正の方でも、何を言われようと取り合うつもりはなかった。夜の道で
「――評判を気にするならば、ことが全て露見したことを考えるべきだったと思うが。
「栄屋……あんな、小店の癖に……!」
隆正は、まだ青海屋の企みの全貌を知らない。というか、片鱗でさえ捉えられているか怪しいものだ。だが、相手にそうと思われないように振る舞うことはできる。それぞれの意味は分からないながら、これまでに掴んだ事実を並べれば、青海屋は勝手に追い詰められてくれるだろう。意識してのことなのかどうか、心底忌々しそうな呟きも、あの破落戸どもとの関わりを白状してくれたようなものだ。
――だから、隆正はここぞとばかりに畳みかける。
「信二を捕えておいたのは、
隆正は懐から例の茶器を取り出し、青海屋に突きつけた。言葉に出して並べるうちに、怒りが肚の中で燃えあがっていくのが分かった。どんな由来があり、どれだけの価値があろうと、手の中に納まる小ささの古びた器に過ぎない。鈴の涙、店の惨状に肩を落とした栄屋主人。自身番で不安げにしていた丁稚たち。右往左往していた青海屋の奉公人の中にも、何も知らぬ者もいたかもしれない。
悪事は
「さあ! 答えよ!」
「それ、は……!」
黒と銀の
(後ひと息、か……!?)
往生際の悪い青海屋に、どう止めを刺すか――隆正が、必死に言葉を探そうとした時だった。ひとく場違いな、のんびりとした声が部屋の隅から上がった。
「青海屋さん、それは
いないものとして扱えと言われた通り、ほとんどそこにいるのを忘れかけていた老人――確か、伊勢屋惣衛門だ。
(何なのだ、この老人は……)
伊勢屋が突然口を開いたのも、その内容も不可解だった。だが、何よりも不審なのが、老人の言葉が何かを読み上げるような一本調子だったことだ。手元に台詞を記した書付でもあればいっそ納得がいっただろう、というくらいの。いや、台詞としても程度が低い。下手糞な上に、文がやけに長くて説明臭くて間が悪い。青海屋を問い詰める構えの隆正が、妙に毒気を抜かれてしまったほどだ。
だが――伊勢屋の下手糞な横やりで、なぜか青海屋は目を剥いて跳び上がった。
「それはっ、口外無用のはず……っ」
「……何だ? それは――」
どういうことか、と。隆正が問い質す暇もなかった。再び、思わぬ声が座敷に響いたのだ。今度は本当に初めて聞く声、それも掠れた――というか、しわがれたような声だった。
「――それは、偽物です」
声は、座敷の入り口から聞こえた。襖を開け放ったままだったそこに、いつの間にか人影がひしめいている。喜平に、猪之助。彼らに追いすがってきたのであろう、青海屋の奉公人たち。それに、喜平が肩を貸して支えているのは――
「黙れ。信二、黙れ……」
「黙りません。旦那様。もう、観念してくださいませ。奉行所の御同心の前ではないですか……!」
ふらりと、崩れるようにして青海屋の傍らに屈みこんだ青年の、紺の
(喜平が、やってくれたか)
青海屋の奉公人を蹴散らして、喜平が若者を助け出す様を想像すると、知らず、表情が緩む。それに、今度こそ全ての証拠と証人が揃ったことになるのだろう。
「信二、だな……? そなたは何を知っているのか、話してくれるか……!?」
隆正は、その青年と向き合うべく、身体をずらした。彼も青海屋を覗き込むべく膝を突いた体勢だった。だから、青年と真っ直ぐに、同じ高さで目を合わせることになる。身体に加えられた暴行の痕、その酷さ汚さとは裏腹に、澄んだ色の目だ、と思った。
「……はいっ」
下問に答える体力があるのかどうか、懸念したのも一瞬のことだった。信二は、思いのほかにしっかりとした声で頷いた。少しふらつきながらも畳の上に座り直し、隆正に向けて手を突き、深々と頭を下げる。そして、一呼吸の後に顔を上げると、ひび割れた唇が動く。
「これは、懇意の
安堵のためか喜びのためか、あるいは一抹の後悔でもあるのだろうか。信二の目元に涙が光るのが見えた。その煌きは妙に眩しく、隆正の昂った心を洗い、鎮めるようだった。
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