第19話 糾弾、救出、そして

「そちらは……?」

「あ、いえ、お気になさらず」


 隆正たかまさ胡乱うろんな目を向けても、老人のにこやかな笑みは変わらなかった。事態を把握できていない――訳ではないのは、糸のように細められた目に確かに知性が宿っていることから窺えた。それに、畳の上で丁重に手をつき、隆正に頭を垂れる所作も洗練されたもの。ただのけた老人ではないと、それだけは分かったのだが――


手前てまえは、大伝馬町で呉服屋を営んでおります、伊勢いせ惣衛門そうえもんと申します。ま、ほとんど隠居した気楽な身ではございますが。今夜は青海屋あおみやさんに掘り出し物がないかお伺いしていたまで、御公儀のお役目の邪魔はいたしませんから、どうぞいないものと思ってくださいませ」

「呉服屋……惣衛門……?」


 そこらに幾らでもありそうな屋号に、滑らか過ぎる口上。あまりにも物分かりが良すぎて、かえって怪しいことこの上ない。その場所に果たして本当に伊勢屋なる呉服屋があるのか、あるとしてその主人――隠居……? ――の名は聞いた通りなのか、その名を持つのはこの老人なのか。確かめる術は今はないのだ。


 名乗られたところで惣衛門なる老人の怪しさが拭われることは一向になかった。だが、当の本人はにこにこと笑みを崩さず、青海屋の方を手で示した。


「はい。この通り萎びたじじいでございますから、隅っこでこう、縮こまっておりますよ。ささ、御同心様、青海屋さんに御用がおありなのでございましょう?」


 そう言うと、伊勢屋惣衛門――を名乗る老人は、言葉通りに部屋の片隅に退いた。座布団を自ら引っ張ってその上に座り直す様は、芝居の席を確保するかのようだった。そう思って見れば、老人の目は無邪気な子供のようにきらきらと輝いているような気もする。それこそ、芝居が始まるのを待ちかねているかのような。

 予想とは全く違った種類の怪しさに、悪巧わるだくみの現場に踏み込んだつもりの隆正としては調子が狂うことこの上ない。


(逃げられることはなさそうだから……良い、のか……?)


 見た目からして確かに小柄な年寄りだし、暴れる気配もないからひとまず置物と思っておこう。半ば自らに言い聞かせる形で強引に納得すると、隆正は改めて青海屋の主人に鋭い目を向けた。


「青海屋」

「は……ははっ」

「そなたの店には不可解なことが多過ぎる。下問するゆえ偽りなく答えよ」


 青海屋の傍らに膝を突いて、顔を伏せたままの相手の顔を覗き込む。敬意や恭順を示すためというよりは、ひたすら追求を恐れ、表情を読まれるのを避けようとする体勢なのだろうが。濃く黒く影が落ちる青海屋の顔の中、見開かれた目玉だけがぎらぎらと光っていた。既にお白洲しらすに引き出されたかのように引き攣った顔色だが、無論隆正は手心を加えてやるつもりなどない。


信二しんじなるこちらの奉公人が行方知れずと聞いて訪ねてみれば、手代はそのような者は知らぬとの答え。しかし夜中に稲荷神社を荒らした丁稚どもに尋ねてみれば、その者は蔵に閉じ込められているとか」

「それは――そいつは、おたなのものに手を付けたからで」


 手代てだいと同じく、見え透いた言い訳、明らかな嘘だった。もはや聞き飽きた類の逃げ口上、隆正とて切り替えす準備はとうにできている。


「ならば、なぜ奉行所に届けなかった? 大事にしたくないならば、なぜ信二を蔵に閉じ込め続けた? そのような者は知らぬ、などと嘘を吐いてまで」

「それは……あの、店の評判に関わるから……」


 青海屋の額から滴った汗が、畳に染みを作る。隆正が立て続けに問うたことに応えるには、とても足りないと分かっているのだろう。というか、隆正の方でも、何を言われようと取り合うつもりはなかった。夜の道で喜平きへいに告げた通り、彼はひたすらに攻めを打つ気でこの場に臨んでいる。


「――評判を気にするならば、ことが全て露見したことを考えるべきだったと思うが。さかえ屋に手を回したのも既に割れているぞ。破落戸ごろつきどもはひっ捕らえたゆえ、面通しをさせれば誰に頼まれたかもすぐ分かるだろう」

「栄屋……あんな、小店の癖に……!」


 隆正は、まだ青海屋の企みの全貌を知らない。というか、片鱗でさえ捉えられているか怪しいものだ。だが、相手にそうと思われないように振る舞うことはできる。それぞれの意味は分からないながら、これまでに掴んだ事実を並べれば、青海屋は勝手に追い詰められてくれるだろう。意識してのことなのかどうか、心底忌々しそうな呟きも、あの破落戸どもとの関わりを白状してくれたようなものだ。


 ――だから、隆正はここぞとばかりに畳みかける。


「信二を捕えておいたのは、の在処を吐かせたかったのだな? しかし奇妙なことだ、栄屋の件では、そなたらはを瓦礫に紛れさせたかったようにも見える。は、一体何なのだ? 人ひとりをいないものとして扱い、小さいとはいえ店をひとつ潰そうとする、それだけの価値があるのか!?」


 隆正は懐から例の茶器を取り出し、青海屋に突きつけた。言葉に出して並べるうちに、怒りが肚の中で燃えあがっていくのが分かった。どんな由来があり、どれだけの価値があろうと、手の中に納まる小ささの古びた器に過ぎない。鈴の涙、店の惨状に肩を落とした栄屋主人。自身番で不安げにしていた丁稚たち。右往左往していた青海屋の奉公人の中にも、何も知らぬ者もいたかもしれない。

 悪事はべて割に合わぬもの。まして青海屋のように、関わる者、守るべき者が多い大店ならなおさらのことだ。立場を弁えぬ主人の所業、それに対する憤りが隆正を駆り立てていた。


「さあ! 答えよ!」

「それ、は……!」


 黒と銀の釉薬ゆうやくで艶めく茶器に、青海屋の顔が映る。茹蛸ゆでだこのように赤くなったかと思うと、次の瞬間には死人のように青褪める。畳に滴るのは、もはや汗だけではなくよだれもだった。唇を閉ざすことさえ忘れるほどに狼狽えているのに、それでもまだ全てを白状する思い切りはないのだろうか。


(後ひと息、か……!?)


 往生際の悪い青海屋に、どう止めを刺すか――隆正が、必死に言葉を探そうとした時だった。ひとく場違いな、のんびりとした声が部屋の隅から上がった。


「青海屋さん、それは唐渡からわたりの油滴ゆてき天目てんもく茶碗、だよねえ。とあるお公家様が食うに困って手放した逸品だとかいう。譲ってくれるとは言ったものの、今は手元にないって話だったじゃないですか。どうしてここにあるんだね?」


 いないものとして扱えと言われた通り、ほとんどそこにいるのを忘れかけていた老人――確か、伊勢屋惣衛門だ。


(何なのだ、この老人は……)


 伊勢屋が突然口を開いたのも、その内容も不可解だった。だが、何よりも不審なのが、老人の言葉が何かを読み上げるような一本調子だったことだ。手元に台詞を記した書付でもあればいっそ納得がいっただろう、というくらいの。いや、台詞としても程度が低い。下手糞な上に、文がやけに長くて説明臭くて間が悪い。青海屋を問い詰める構えの隆正が、妙に毒気を抜かれてしまったほどだ。


 だが――伊勢屋の下手糞な横やりで、なぜか青海屋は目を剥いて跳び上がった。


「それはっ、口外無用のはず……っ」

「……何だ? それは――」


 どういうことか、と。隆正が問い質す暇もなかった。再び、思わぬ声が座敷に響いたのだ。今度は本当に初めて聞く声、それも掠れた――というか、しわがれたような声だった。


「――それは、偽物です」


 声は、座敷の入り口から聞こえた。襖を開け放ったままだったそこに、いつの間にか人影がひしめいている。喜平に、猪之助。彼らに追いすがってきたのであろう、青海屋の奉公人たち。それに、喜平が肩を貸して支えているのは――


「黙れ。信二、黙れ……」

「黙りません。旦那様。もう、観念してくださいませ。奉行所の御同心の前ではないですか……!」


 ふらりと、崩れるようにして青海屋の傍らに屈みこんだ青年の、紺の青海波せいがいは紋のお仕着せが、薄汚れて垢じみていた。ところどころに濃い茶の染みがあるのは、血の痕だろうか。痩せた顔にも、青く黒く、幾つものあざが見える。ひと目見ただけで、囚われていた間の扱いに眉を顰めざるを得ない。この青年の名は――青海屋に呼ばれたのを聞くまでもなく、明らかだった。


(喜平が、やってくれたか)


 青海屋の奉公人を蹴散らして、喜平が若者を助け出す様を想像すると、知らず、表情が緩む。それに、今度こそ全ての証拠と証人が揃ったことになるのだろう。


「信二、だな……? そなたは何を知っているのか、話してくれるか……!?」


 隆正は、その青年と向き合うべく、身体をずらした。彼も青海屋を覗き込むべく膝を突いた体勢だった。だから、青年と真っ直ぐに、同じ高さで目を合わせることになる。身体に加えられた暴行の痕、その酷さ汚さとは裏腹に、澄んだ色の目だ、と思った。


「……はいっ」


 下問に答える体力があるのかどうか、懸念したのも一瞬のことだった。信二は、思いのほかにしっかりとした声で頷いた。少しふらつきながらも畳の上に座り直し、隆正に向けて手を突き、深々と頭を下げる。そして、一呼吸の後に顔を上げると、ひび割れた唇が動く。


「これは、懇意のかまに作らせたものです。地に埋めて古びたように見せ、それらしく箱や添え書きをつけて、表には出せない逸品だとして売りつけるのが青海屋の裏の商売でございました。俺は――お諫めしようとしたのですが、力及ばず。捕らえられて、明日にも殺されるかと思っておりました……!」


 安堵のためか喜びのためか、あるいは一抹の後悔でもあるのだろうか。信二の目元に涙が光るのが見えた。その煌きは妙に眩しく、隆正の昂った心を洗い、鎮めるようだった。

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