第14話 夜闇の中で

 日本橋近辺と言えども、日が落ちれば人通りはぐっと減る。空が茜色から濃紺へと色を変えるにつれて、光の届かない影の領域は広くなる。そんな暗がりのひとつに身を潜めて、隆正たかまささかえ屋の暖簾のれんから漏れる灯りを見つめていた。

 猪之助いのすけは、隆正の粘りにとうとう根負けしてくれたのだ。人望厚い親分である猪之助の号令のもと、若い衆が直ちに集まる様は、若輩の同心の身には羨ましい眺めだった。信頼や絆とは一朝一夕に培われるものではないのだと、今は自身に言い聞かせるよりほかにないが。ともあれ、猪之助は何人かの手下を連れて青海あおみ屋を見張っている。一方の隆正は、より危険が大きそうな――青海屋が強引な手段に訴えそうな――栄屋と、すずの方を受け持っているという訳だった。


「若旦那、この握り飯、美味いですねえ」

「だろう」


 隆正の傍らで握り飯を頬張っているのは、喜平きへいという若者だった。これも猪之助の手下のひとり、さほど年も変わらないのに彼を若旦那と呼ぶのは、やはり親分からの影響があるのだろう。それに、かつては共に走り回って遊んだ仲だからでもある。父は、江戸の街をよく知る岡っ引き一家とよく交わらせることで、彼を鍛えようとしていた節があった。


 隆正も、握り飯を口に運ぶ。刻みねぎを混ぜた味噌だれを塗って軽く炙っただけのものだが、喜平の言う通り格別の味だ。味噌の塩気に深みを加える味醂みりんの甘味や、焦がし方の加減が絶妙なのだろう。暗い中で見張りをする彼らのためにと、鈴が握ってくれたものだった。


 隆正から青海屋からの手出しがあるかもしれないと聞かされた栄屋一家は、最初はさすがに表情を強張らせた。だが、鈴も主人もその女房も、御同心様がついていてくださるなら安心だ、とすぐに笑ってくれた。それどころか、夜になるとまだ肌寒いから、と腹に溜まるものをこしらえてくれた。

 多分、信二しんじのことで何か進展があるのかも、という期待があの娘を動かしたのだろう。あれこれと跳ねるように立ち働く鈴の姿は可愛らしくいじらしかった。その想いに答えるためにも、この一夜は油断してはならない、と。握り飯を呑み込みながら、隆正は自身に言い聞かせている。


「菜飯も焼き魚も美味かった。旬に合わせて出すものを変えてもいるのだろうなあ。機会があったら行くと良いぞ」

「役得で良い店を教えてもらったようで、ありがてえことです」


 以前振る舞われた膳を思い出したので教えてみると、喜平は弾んだ声で答えてきた。迷惑をかける分、栄屋の客を増やすことができれば良いのだが。

 食べやすいように、と小さく作られた握り飯を、喜平は立て続けに食らっている。よほど気に入ったらしい。それでもやがて腹が落ち着いたのか、喜平はしみじみと呟いた。


「最初はよくある家出人かと思ってましたが……こんな美味い店の主人と娘に気に入られてて棒に振るってのもおかしな話ですねえ」

「そうだな、そうだろう」


 食い意地が言わせたことだとしても、喜平の言は隆正には心強かった。信二が自らの意志で姿を消すのはおかしいと、他の者からもお墨付きをもらったように思えたからだ。とはいえ、その点を認めると、途端に事態はキナ臭くなり、不安が肚を焦がすような感覚が襲ってくるのだが。信二の失踪がおかしな話であるならば、彼の身には何か悪いことが起きているのかもしれないのだから。


(信二はどこにいるのだろうな……青海屋は、知っているのか? 知っているからこそ、白を切ろうとしているのか……?)


 手遅れでなければ良いが、などと。薄雲うすぐもが吐いた不穏な言葉が気になって仕方がない。無論、この場であれこれと考えたところで答えは出ない。青海屋の動きを捉えることさえできれば、それを口実に店に踏み入ることもできるのだろうが。だから、結局待つことしかできないのだ。

 暗い中、身じろぎもせずにひたすら待っていると、思考だけは自在にあちこちを彷徨ってしまう。例えば今も不夜城ふやじょうの煌びやかさに輝いているであろう吉原のこととか。


薄雲あのおんなは、今日も座敷に出ているのだろうか)


 多分、そうなのだろう。何しろ昨夜は隆正のせいで稼ぐことができなかったのだから。鈴の握り飯に舌鼓を打つ身には、夜ごとの美酒美食はかえって身体に毒なのでは、とも思ってしまったりもするが。花魁とは日頃何をして何を思い、何を飲み食いしているのか、思えば彼は何ひとつ知らなかった。

 大尽たちに媚びて微笑む胸の裡では、少しでも鈴や信二に思いを馳せていたりはするのだろうか。思ってくれていたら良い、と思うのはなぜだろう。薄雲には彼らに対する義理などないだろうに。冷たい月のような美貌に、実は温かい血が通っていて欲しい、などと――隆正の勝手な考えに過ぎないだろうに。


「毎日帰ったら美味い飯が待ってるてえ暮らしは良いでしょうねえ、若旦那」


 握り飯を食べ終えた喜平は退屈なのか、隆正に気安く話しかけてくる。一応は声を潜めているから、辛うじて目的は忘れていないのだろうか。


「料理上手で働き者で――そんな娘に嫁に来て欲しいもんです。若旦那はどうです? あのお鈴って子、なかなか可愛いじゃないですか?」

「……馬鹿な。あの娘には想う相手がいるのだろう」


 彼方に思いを彷徨わせていたから、それに突然思いもよらぬことを言われたから、隆正は一瞬絶句してしまった。彼を慌てさせたのは鈴ではなく、直前に思い浮かべていた薄雲の姿だったが。そのようなことは知らない喜平は、良いところを突いたとでも思ったのかもしれない。暗闇の中に白い歯がちらりと浮かんで、にやりと笑ったのが見えた。


「だって若旦那は浮いた噂のひとつもないじゃないですか。だから心配なんですよう。隠居した旦那や、奥方様だってきっと――」

「静かにしていろ。人目を引くではないか」

「そろそろ客も減ってきたところでしょう。誰も見ちゃいないですよ」


 余計すぎる口出しに、低い声で叱りつけても喜平が悪びれることはなかった。喜平が顎をしゃくった先では、またひと組の客が栄屋の暖簾を潜って通りに出たところ、確か店内にはほとんど人がいなくなった、という頃合いではあるだろう。栄屋では酒を出さないそうだから、仕事を終えて腹を満たそうという客が一段落すれば、そろそろ店じまいを考えるのかもしれない。青海屋が手を出すとすれば、夜がさらに更けてから、人通りが完全に途絶えてから、なのかもしれないが――


「――若旦那」

「ああ」


 へらへらとしていた喜平の声が急に低く抑えたものになった。隆正も、懐に構えた十手じってを握り直して身構える。栄屋の暖簾の奥から、甲高い悲鳴と怒号が聞こえてきたのだ。今夜に限って、客同士の小競り合いなどということもないだろう。


(客を装って入り込んでいたのか……!)


 青海屋に多くいるであろう奉公人の顔の全てなど、もちろん把握している訳ではなかった。それか、その辺りの破落戸ごろつきに金を積んで依頼したのかもしれない。そうと知らずに呑気に握り飯を頬張っていたのは間抜け、だっただろうか。いや、そうは思うまい。隆正がいればこそ、乱暴狼藉をその場で取り押さえることもできるのだ。


「行くぞ」


 言葉よりも先に、目で命じたのを受けて喜平も腕まくりをしている。猪之助の下で荒っぽいことにも慣れた若者のこと、背中を任せるのに不足はない。


 鈴を、栄屋を守る。信二を見つけ出す。青海屋のはかりごとを暴く。その糸口が、今、目の前に到来しているのだ。それを決して逃がすまい。心中で決意を固めながら、隆正は暗がりから躍り出る。そして――栄屋の戸口へと手をかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る