第3話 栄屋お鈴
「さあさ、お上がりなんし。
中でも
「ふん、どうだか……」
減らず口を叩いてぐいと酒を飲み干すと、角のないまろやかな甘みが喉を落ちていった。薄雲の立ち居振る舞いの何もかもに卒がなく洗練されていて、しかしだからこそ作り物めいて気に入らない。
(このような美女でなくても――)
薄雲の笑みを上書きするかのように、隆正の脳裏に、此度のことの切っ掛けとなった娘の姿が浮かび上がっていた。
* * *
隆正がその娘に初めて会ったのは、奉行所に出仕しようとお
「あのう、御同心様……?」
おずおずとした声に呼び掛けられて振り向くと、そこには若い娘が佇んでいた。
「あたし、日本橋堀留町で料理屋をやっています、
「探し人か。一体誰を探しているのだ?」
「うちの出入りの器屋さんで――
「ふむ……」
鈴と名乗った娘の必死の面持ちを哀れに思いつつ、しかし、隆正は訴えが捨て置かれているであろうとほぼ確信していた。
大江戸八百八町を取り仕切るのに、町奉行所の与力同心は南北の奉行所を合わせても二百五十名ほど。目明し、岡っ引きなどと呼ばれる手先を自腹で雇うこともあるとはいえ、圧倒的に人手が足りないのだ。町人からの訴えはより急を要するものから先に処理されるし、夫婦喧嘩だの隣人同士の貸し借りを巡っての
鈴の探し人とやらも、
「……それだけでは奉行様も何とも動きようがないだろう。詳しく話を聞きたいが――鈴とやら、なぜ
「あっ、申し訳ないことなんですが――」
そういえば、と問うてみると、鈴は頬を赤らめて俯いた。
「お若くて、あんまり怖くなさそうだったから……」
消え入りそうな声が答えたことは、全く得心がいくものだった。
* * *
「あら、まあ――」
そこまで語り終えたところで、薄雲花魁の唇が弧を描き、くす、と吐息のような笑声が零れた。
「若造呼ばわりされてまで、その鈴とかいう娘のために? 主さんはまっこと奇特なお人でありいすなあ」
「町民を守るのが某の務め。若さが役に立つことがあったなら喜ぶべきことだ」
わざとかどうかは分からないが、薄雲の指摘は絶妙に隆正の自尊心を引っ掻いた。
最初に指摘された通り、隆正は定廻り同心を務めるには若い。十四の時から父の後について市中を知悉するべく見廻りの真似事をしてはいたが、それでも経験は十分とは言い難い。早くに役を退いた父の後任に収まることができたのは、運と偶然に拠るところも大きいのだ。同心職は本来一代限りの召し抱えであって、実務の便宜上、子が親の地位を継ぐことが多いというだけ。彼の現在の職は、決してあらかじめ約束されたものではなかったし、まだまだ身の丈に合ってはいない。
上役や同輩、父から継いだ目明しからは頼りないと評される一方で、町を歩けば江戸を守る同心様と声が掛かる。立ち寄っていただければ安心と、代金も取らずに蕎麦だのを勧められることもある。その期待と称賛に相応しいだけの働きなどまだしていないというのに。
だから――鈴という娘が選んで彼に呼び掛けたのは、隆正にとっては実は躍り上がるほど嬉しいことだったのだ。理由が偉そうに見えなかったから、であったとしても。実際、彼は芝居などで語られるような偉大な先達とは違うのだから。
「ほほ、わちきとしたことがとんだ話の腰折りを――野暮をいたしいして、申し訳ないことでありんした」
隆正の機嫌が傾いたのを察したのかどうか。薄雲は素早くへりくだると、彼の杯に酒を注ぎ足し、そうして話の続きを促した。
* * *
奉行所にて、鈴の訴えがきちんと受理され、かつ予想通りに後回しにされているのを確かめた隆正は、日本橋へと足を向けた。市中見廻りはそもそも彼の務めであって、ついでに料理屋に立ち寄ったとしても問題はないはずだった。
五街道の起点にして、江戸前の魚が揚がる魚河岸もほど近い日本橋は、人も物も集まる江戸の中心だ。行き交う者の腹を満たす料理屋もひしめいている。栄屋も、その中のひとつだろうと隆正は当たりをつけていた。
人に道を聞いて辿り着いた栄屋は、まさに江戸中のいたるところに見られる小店だった。店構えの雰囲気からして夫婦と娘で切り盛りしているといったところだろうか。立ち食いや屋台の店ではなく、店内の座敷に客を招く形式のようだ。さて肝心の娘の鈴は――とみると、ちょうど食事を終えたらしい客を見送りに出ていたところだった。ぺこりと下げられた頭が勢いよく上がり、隆正の姿を認めてぱっと明るい笑みが零れた。
「あ、御同心様! わざわざいらしてくれたんですか!?」
「うむ、そなたの探し人について、もう少し話を聞きたくてな――」
「ちょうどお客さんが掃けたところだったんです。どうぞ、お父ちゃんの膳を召しあがっていってくださいな」
商いをするものの口の周りようは、隆正の及ぶところではなかった。店先で結構、と彼が言い切る前に、鈴は店の中に首を突っ込むと、父親に一人前の膳を用意するように呼び掛けた。
「いやあ、娘が勝手なことをしまして。わざわざお役人にお声がけするなんざはしたない、後できっちり言って聞かせますんで」
「いや……」
(勝手なこと……? 店主は青海屋の奉公人とやらを探してはいないのか?)
勧められるままに店内に迎えられた隆正に、栄屋の主人はしきりに頭を下げた。ひたすらに申し訳なさそうな――娘が余計なことをした、とでも言いたげなその様子は少し不審ではあった。娘の鈴の心配を、父親が共有してはいないようだったから。出入りの店の奉公人が失踪して、店主ではなくその娘が訴え出るというのは思えば不自然、なことだっただろうか。
「折角ですんで、うちの飯をどうぞ召し上がってくだせえ。もちろんお代は結構ですんで」
「いや、そうい訳にはいかぬ」
「いえいえ、どうぞどうぞ」
どうにかして代金を置いていくのは面倒そうだな、と。心中少々焦りを感じながら隆正は出された膳を眺めた。
しらす菜飯に、軽く擦った
探し人のことも、父娘の態度の齟齬も、膳の代金のことも隆正の頭から吹き飛んだ。とにかく、飯を食ってからだ。そう考えるのさえもどかしく、ほとんど勝手に手が動いて飯を掻き込む。
「美味いな」
ひと通り味わってから呟いたのも、隆正の意志に寄らず勝手に口から出たことだった。しらすのほど良い塩気に、青菜のしゃきしゃきとした食感と胡麻の香りが米の甘味を引き立てる。鷹の爪の辛味もほど良く、たまに感じるぴりりとした刺激が良い塩梅だ。鰆の焼き加減も申し分ない。
「へへ、恐れ入りやす」
寡黙な隆正のこと、言葉は短かったが、だからこそ心からの賛辞だと分かったのだろう、栄屋の主人は得意げに微笑むと頬を掻いた。
「器も凝っているが、青海屋とやらから仕入れているのか?」
菜飯と鰆の切り身を半ば以上平らげると、茶碗と魚が乗った角皿とは揃いの紋様が描かれていた。それに、付け合わせの
八百屋や魚屋ではなく、醤油や
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