落合進・10

 「なあ、さやか、悪かった、ごめん。もうやめよう、こういうのは」


 さやかは、ちらりとこちらを見て、「あら」とだけ言った。そして数秒視線を彷徨わせ、にっこりと笑った。


 「秘密バレちゃったんじゃあ、もうやる意味無いものね。私のことは黙っててくれるなんて、落合くんって意外と優しいのね」

 「違う、僕は優しくなんかない」


 バスタオル姿のさやかはラブホのベッドに座って、指を空中に滑らせる。文字でも書いているような、遊んでいるような仕草だ。僕のことなんか心底興味のない人間が取る態度にも見えた。

 言った通り、僕は優しくない。さやかの弱みを握って抱いた。何回も何回も酷いことをした。今更謝ったって許して貰えないだろう。じゃあ僕は、どうしたらいい。さやかは何を考えているんだ。

 さやかは、見た目だけ大人になった子供みたいだ。その指先だってきれいにしているけれど、ふわふわ浮ついて忙しない。憧れの人になるために、体だって許してしまう。どこまでも危うい。


 「中野さんも言ってたけど、落合くんって、ひねくれてるようで一番優しいじゃない。どう?もう一回、東和大受けてみたら? 生涯コンプレックスになるくらいならやってみるのも良いと思うけど。私はそれを抱えるのが嫌だから整形した、汚い仕事もしてる、落合くんなら、そんなことしなくても成功できる」

 「そんな度胸も金ねえよ、でも、でもさ」


 ありがとう。さやかに向かって、はじめて礼を言った。

 さやかは少し驚いたようだったけれど、すぐにいつもの笑顔に戻って、どういたしまして、と返した。

 ここに来るのも、今日で最後だ。もう目の前の、この女をそういう目では見れない。赤川さやかは、普通の女の子として生きるべきなんだ。そこからずっと目を背けて、自分の劣等感を好き勝手にぶつけてきた。こんな胸糞悪い気持ちをするくらいなら、部屋に飾ってあるポスターやレコードを眺めている方がまだマシだ。さやかはどこにでもいる普通の女の子で、僕が弱みを握って好き勝手していい存在ではなかった。


 「さやかもさ、AVやめろよ、その……さ、整形しなくても、そのままでもきれいなんだから」

 「嬉しいこと言ってくれるじゃない」


 ラブホの照明がちかちかと光って、そのうちのひとつがぷつりと消える。ふっるいホテルだ。さっき、汗を流すために浴びたシャワーも途切れ途切れだったし、余りここには長居したくない。羊山荘も限りなく似たようなものだが、やかましい仲間がいるだけまだマシだ。


 「さやか、ここ出よう。帰ろう。飲むだけなら二〇五でもできるし、空調は酷いけど、ここと似たようなものだし」

 「ええ、私もそう思ってたところ」

 「さやかがAV出てるってことは黙っておく、いっちも中野も無神経だから、僕だけが墓場まで持っていく」


 あとは羊山がどうだか知らないけど、あいつは大家なだけあって肝心なところで頼りになるやつだ、とは思っている。ジャグラーで勝った金でも握らせておけばいいだろう。中野に勝ち方を教えてもらおう。あいつが勝っているところを、あまり見たことがないが。

 聞いてるか、さやか。帰るぞ、もうここには来ない。煙草も置いていけ、さやかはそんなもの吸わなくていい。そう言うと、目の前の女は、大人しく煙草をテーブルに置いて立ち上がった僕を見上げた。


 「そうやって、たくさん名前呼んでくれるの、私好きだなぁ」


 一年と少し、過ごして。さやかがなんとなく、ぽつんと独り言のように呟いたその言葉。羊山荘より、少しだけ広いラブホテルに消えていく。初めて本音を聞いた気がした。

 散々抱いて痛ぶった、僕が嬉しく感じる資格は無いので、そっか、とだけ返す。



 羊山を信じたのが馬鹿だった。

 羊山が何とかしてくれると思っていた。

 僕らが「偶然会った」ていで帰ると、奴は羊山荘の回覧板、それはあそこのスーパーの惣菜が安いとか公開されたあの映画の続編が面白くないとか大抵無意味な情報が書いてある、月イチくらいで回ってくるものを持って、ニヤニヤと笑っていて。両端にはただならぬ表情を浮かべた中野といっちが立っていた。

 中野が化け物を見るような目で僕たちを見る。初夏。いやに空気が青く重い。じわりと嫌な汗が首筋を伝う。

 赤川くんだけ秘密が守られるのは、不公平だろう? 羊山はそうとでも言いたげだ。


 「赤川さあ、AVって」

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