落合進・8

 へえ、いいじゃん、と返す。こんなこと本気で言っているわけがないので、冗談には冗談で返すしかない。

 いっち、もとい一倉洋輔は、僕の知る限りとても真面目に生きている人間だ。大学に行かずスロットを打っている中野や、AVに出ているさやかや、怪奇現象である羊山と比べたら、「お笑いのビデオばっかり見ていて、よくゴミ捨て場の掃除をしていて、演劇のサークルに入っている、普通の大学生」という認識が抜けない。他人の時間割を把握していたり、よくわからない心理学の授業を取っていたりと、変な部分はあるけれど、一年通った名門大学を捨ててお笑いの道に行くような突飛さはない。


 「大学が嫌とか、そういうんじゃないけど、やっぱ諦めきれんし、でも親にも話したことない、そんな勇気ない、でウダウダしてたら、ここまで来てもうた」

 「ふーん.....」


 ふざけているようには聞こえなかった。ちゃぶ台からビールの缶を手に取り、残り少ない分を一気に煽る。いっちはいつもみたいにヘラヘラするのをやめて、バサバサになっている畳に散らかっているゴミに視線を落としていた。

 冗談って言ったよな、こいつ。

 僕はさっき、いっちなんか売れない芸人にでもなればいいと思いはしたが、大学を辞めて養成所に行けまでとは言っていない。東和大学に入れて、一年次の単位をフルで揃えておいて、中退するという選択肢などは僕の頭の中に存在しなかった。考えうる中で一番最悪だ。


 「つまんねえ冗談やめろよ、酒がまずくなる」


 そう、いっちは酔って変なことを言っているだけ。そうでもないと僕が耐えられないからだ。そんなに恵まれておいて、全部を捨てて夢とやらを追いかけても、掴み取れるわけがない。だけど、と今までのことを思い出して背中に冷や汗がつたう。二〇五にある大量のお笑いのビデオ、妙に面白いいっちが話の間に挟むギャグ、演劇サークル、この空気。線が繋がっていくのを嫌でも感じる。嫌悪感がいよいよ熱を持ってくる。


 「.....それとも、まさか本当?」

 「.....昔の夢や、今はちゃう」

 「昔は宇宙飛行士になりたかったんだろ、お前」

 「いや、本当はちっちゃい頃からずっと.....」


 がちゃりとドアが開く。見なくてもわかる、羊山だ。いっちも察したのか、それともこれ以上は話したくないのか、僕ら二人は黙るしかできない。


 「やあお二人さん、進路相談かい?追加で酒も買ってきたから、今日は飲もうじゃないか」


 酒缶がぱんぱんに入ったビニール袋を片手に引っさげてやってきた羊山は、知らない女性アイドル集団が描かれたTシャツに短パンという羊山にしてはまともな格好をしていて、しかし喋り方はいつもの例の「幼少期に見たアニメに出てきた博士」のままで、緊張が漂っていた二〇五は少しの平穏を取り戻す。草履を脱ぎ捨てて揃えもせず上がり込んでくる羊山は、どかりと僕らの前にあぐらをかいて座り込んだ。


 「聞いてましたよね、今の話」


 あまりにも完璧なタイミングにため息が漏れる。この壁もドアも薄い羊山荘は、一応箱の形をしているだけの野外といっても差し支えない。羊山が妙ににやけている。酒をちゃぶ台に並べながら、これはバレているぞといっちと目配せをする。面倒なことになりそうだ。


 「もちろん。僕は全部、そう、羊山荘の全部を知っているからね」


 ぷしゅ、と缶が開く。羊山が安酒を煽る。それにつられて、いっちも度数の弱いチューハイに手を伸ばした。


 「へぇ、じゃあ羊山さん、いっちって本当にこの学歴投げ捨てて芸人なるつもりなんすか、教えてくださいよ」

 「お、おい……」


 いっちの手が止まる。明らかに慌てだすこいつを、僕は少し冷めた目で見る。僕が死ぬほど入りたかった大学を、いっちがくだらない夢のために捨てるつもりなら、なんて馬鹿なんだろうと思うし軽蔑する。友達を辞めたっていい。


 「三年くらいの暇な時期になってくると、大学と養成所どっちも通うっていう器用な子も居るみたいだけど、ね。一倉くん、キミが入学書類を取り寄せた養成所は大阪にある、東和大は辞めなくちゃいけないねえ」

 「な、なんで全部知っとるんすか、きっしょ……」


 いっちが焦りだし、羊山を止めようと腕を伸ばしたら、少し残っていた中野かさやかのチューハイ缶が床に落ちて、少しだけ残っていた中身が畳を汚し始めていく。

 本当なのかよ? と目線をいっちに送ってみる。いっちは何も返さない。イライラする、良いとこ取りしやがって、学歴も友達も羊山荘も捨てて生きるなんて。友達だと思ってたのに、もう無理なのかもしれない。かといって僕の秘密をバラすわけにもいかない。


 「……なあ、落合」


 静かな部屋に落ちるいっちの声。落合と一倉、普段はおっちといっち、なんて呼び方をするけれど、真面目な時は本名で呼ぶ。ただならない話だ、僕は舌打ちをして、はじめて見るいっちの真剣な顔に視線をやる。


 「俺な、ガチやねん。学生課とも相談しとるし、俺も成人した男や、親にはどうこう言わせんって決めとる。結局どこにでもある大学でどこにでもある人生やるより、俺は、大阪に行きたくて、大阪で売れたくて」


 二◯五は蒸し暑い熱気に包まれているが、僕は恐ろしいほど冷めている。いっちはずっと、熱弁に熱弁を重ねている。影響を受けたお笑いコンビから、芸人を志したきっかけまでぺらぺらと喋る、まるで演説みたいだ、そんなにうるさくしたら中野やさやかが何事かと思って来るんじゃないか。

 いっちの言う、どこにでもある大学にさえ入れなかった僕は、いっちからしたらゴミ、それよりも下なのかもしれない。こいつは上を、大きな夢を描いて、満天の星を掴み取ろうとしているが、僕はその間もバイトのレジ打ちやら就活やらなんやらしなくちゃいけない訳だ。

 いっちが辞めるんなら、空いた籍に僕を入れてくれと提案したくなる、それくらい酔ってる。お前は上が、目標が、こんなところで燻ってる訳には、って言うけど、この羊山荘にいる時点で終わり、全部終わりだ。先日自殺未遂を起こした中野、Fランの僕、AV女優のさやか、知らんけど羊山、さっさと出ていった方がいい。それで大阪で家賃の低さとは釣り合わない綺麗なアパートを見て驚いてくればいい。もういっちなど、興味はない。隠しきれて安心した、ってくらいだ。


 「……ほんでな、おっち」


 一倉も酔っているのか、声が少し震えている。いつもならあんなに楽しそうに大きな声で喋るくせに、今はどこか不安そうだった。


 「おっちが気にしてたん、知らんかった。ごめん、マジでごめん、肉奢ったるから許してくれ、おれは、お前のこと何も知らんで友達友達って……」

 「う、うわ、抱きつくな、苦しい、苦しいって!」


 ごめんな、と繰り返すいっち。泣いているのか抱きつかれたスウェットにぽたぽた雫が落ちる。泣いてんのか、泣くのかこいつ、おもしろ……くはない。困惑中。そして、羊山がくすくす笑いながら楽しそうに見ているのも気に食わない。なんとかしろ、これを。


 「いっちはあのテクニカルサイバー大学……? にコンプ感じながらも、ちゃんと通ってる。なのに俺は、養成所の書類を取り寄せることしか……」


 涙声のいっちが、僕からやっと離れていく。

 そんな名前の大学でもないし、コンプって直接言われるの、めちゃくちゃにムカつく。普段のいっちは羊山荘の中でも付き合いやすい人間第一位であるが、人への心遣いができるからこそ、その絞り出すような声が、僕の何年も溜めたイライラを爆発させた。中学受験、高校受験、そして大学。勉強は偏差値をあげるゲームだと思っていたから、大学に入ってからの授業に興味はなかった。こうして夢なんて掴めずにそのへんのサラリーマンになって死ぬのだ。それに比べて、いっちの目は輝かしくて、みていられない。


 「行けよ、養成所。僕が入りたくて入れなかった一枠無駄にして、行けばいいだろ。なんでお前は肝心なところで保身に走るんだよ、麻雀でもポーカーでもいつもそう。こんなところでうだうだしてないで、早く大阪行けって、言ってんだよ!」

 「は、はぇ、おっち、お前そんなでかい声出せたんか……」


 ぷぷ、とあぐらをかいた羊山が笑う。ハエがよろよろと僕たちのテーブルの上を泳いでいる。

 いっちみたいな能天気野郎、勝手に生きて死んでくれ。やらなきゃいけない事なんて国民の三大義務くらいしかない。だったら勝手に生きて、グランド花月でもなんでも舞台に立ってみればいい。


 「……あはは、ありがと、おっち。俺ももう逃げてられんわ、この面倒臭い大家さんにもバレてもうたからの」

 「……いや、僕も。部屋にいたら急に羊山来てさ、僕の大学のランクが……とか、コンプ知ってるくせに言い出して」

 「はて、何の話かね。さてさて、酒でも買ってくるかあ」


草履を鳴らして、羊山は二〇五を出ていく。

夢、希望、輝かしい将来、そんなものは自分にはなかったけれど、目の前で鼻水を垂らしている男がやってくれたら。何万分の一の確率だろう、いや、こいつちょっと面白いからいけるかもしれないな。テレビに映るいっちを想像してみる。いつもの少しずる賢いような、満面の笑みを浮かべている。


 「そうと決まれば養成所……というか、一倉くん、両親にこの話はしてなかったね?どうするつもりだい?」

 「うあ、それなんすよ。うち、家庭方針自体は自由やねんけど、一回決めたことを辞めるのが大っ嫌いやねん。そのせいで俺も中学までピアノやらされて……」

 「え、おもしろ、今度弾いてよ」


 何気ない会話をする僕たちを差し置いて、羊山がうーん、と首を傾げる。いつもの人を馬鹿にする口調ではなく、素直に友人を心配する声色だった。それを見て、今このタイミングと思ったのか、用意されていたセリフを読むようにいっちは口を開く。


 「おっち、協力してくれんか。ほんまは直接話すべきなんやろけど、今はビデオ通話とか色々あるから。俺が親父に土下座するより、俺の夢を応援してくれる奴らがこんなに居るっていうことの方が響くと思うねん。ほら、マイちゃんとさやぴも呼ばな!」

 「え、え〜? ……もうあんな、大声出せねえって……」


 頼む! と手を合わせて頭を下げるいっち。羊山荘の人間の突飛な行動にはもう慣れた。それならみんなで泥舟に乗るしかない。


 「いやあ、キミたちは本当に仲が良いんだな」


 羊山がケタケタ笑う。

 そんなつもりは無いので、きっと睨みつけておく。

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