中野麻衣・12
目を覚ますと自室のベッドに寝転んでいた。一見当たり前のようであるが、二○五で飲み潰れて寝落ちたり、適当な男とホテルに行ったりすることがたまにある私がちゃんとここに帰って来れる確率は八・五割くらい。安堵のため息を漏らして、右半身に走る激痛に小さく悲鳴をあげた。
そうか、私、飛び降りたんだった。窓から差し込む水色を見上げると空は晴天、今日も嫌気がさすほどの真夏日になりそうだ。
ベッドの下から仰々しい表紙のノートを取り出す。こんなのに真剣に遺書を書いていたと思うと笑いそうになる。ゴミ袋に入れて、今も下で掃除しているであろう一倉に突き出してやろうと思ったが、これは私が必死に書いてきた日記、また死にたくなった時のためのお守り、思い出……ううん、どれもピンとこないけど、とりあえずは持っておくことにした。生きたい私も死にたい私も、認めてあげられるようになりたい。いつかそうなりたい。今は無理でもね、いつかね、と呟いて、またベッドの下に放り投げる。
思えば羊山荘とも長い付き合いだ。天井を見上げてぼうっとしていると、隣部屋の落合が掃除機をかけ始めた音が聞こえてくる。
引っ越して来たばかりの私は隣人の生活音のひとつひとつに腹を立てていたけれど、今では二度寝に誘う子守唄にさえ感じてくる。もう少し寝ようかな、と考えているうちに目覚まし時計が鳴り、とりあえず入れていた一限のことを思い出した。確か必修だったはず。
「……行くかあ、めんどいけど」
顔を洗って、歯磨きして、髪を整えて、それなりに見える服に着替えて、鞄にその日の授業の道具を突っ込んで、靴下を履いて……めんどくさい朝の準備を、みんなやっていると思うと尊敬を通り越して畏怖の念すら覚える。最低限の生活から逃げ回っていた私が、ちゃんとできるようになるまではまだまだ時間がかかりそうだ。今日はその記念すべき第一歩。最初くらいちょっと手抜いてもいいよね、と言い訳し、「靴下を履く」の過程をスルーしサンダルに左足を引っかける。
予想通り、外に出た瞬間にやる気を吸い取られる。今日も確定で暑くなる。崩れ掛けの階段をカタカタと降りていると、なぜかゴミ捨て場には一倉でなく羊山がいた。おはよう、と声をかけられたから返事を返しておく。
「中野くん、今日は日雇いバイトかい? 珍しいね、こんな朝から」
「いや、一限ですけど」
そう言うと、ワイシャツ姿の男はきょとんと目を丸くしたあと、この世で一番面白いことが起きたかのように大笑いしはじめ、数十秒後には息も絶え絶えになっていた。まったく、幸せそうでなによりである。
「中野くんが出席、しかも一限。こりゃあ面白い、ついに勉強する気になったのかい」
「そんな笑わなくても……そろそろ頑張んないと、秋田の両親に顔向けできないなって思っただけです」
「それは素晴らしい心意気だ。あ、この前多摩川で拾ってきた自転車使うかい? パンクしてるけど歩くよりは早いはずだ」
「……遠慮します、絶対歩いた方早いんで」
ええ、泥まみれだけど、ブルーで可愛らしいのに。羊山は特に残念がる様子もなく、なんならまだ私が一限に行く件で笑っている。それにしても羊山は普段何しているのだろうか、多摩川で拾った自転車? 深く考えると頭痛がしそうだ、さっさと忌まわしき大学に向かうとしよう。
久しぶりに大教場に入って後ろの方の席に座っていると、どこか懐かしい気分になる。教授の声は耳をすり抜けていくが、入学したてでキラキラの大学生活を夢見ていた頃はよくここで、今は疎遠になった友達とゲームアプリで対戦したりくだらない話をしていた。青春、今からでも遅くないかな、と辺りを見回すも、目に映るのは目に光のない再履修組と服装で分かる一年生のみ。この講義、来週も来れる自信がない。
「というわけでね、久々に行ってきたわけですよ、大学。二限でリタイアしたけど、受けてきたわけですよ、講義を」
「それが本来の学生生活やで……痛! チェスの駒投げるの禁止ってゆうたやろ、小学生か!」
「あら、中野さんが居たならお昼誘えばよかった……」
「昼休み前に帰ってますー、このだらけきった体でフル出席は無理、午後死んだように寝たわ」
かんぱーい。安いチューハイ、ビール缶、ボードゲームに昔のテレビゲーム。誰かが持ち込んだ漫画、壊れかけの棚にびっしり並んだお笑いのDVD、私が持って帰り忘れた化粧品、全員で共有している大学の楽単情報がまとめてあるファイル。壁には各々の趣味のポスターと適当に予定が書かれたカレンダー、テレビ台の上には羊山が「呪いの人形」と言って持ってきたこけし、床にまで散らばる十八禁の雑誌。古いちゃぶ台を囲んで二○五の宴会は今日も始まる。
酔っ払って、頭がぼんやりしてくると、こんな日常さえも愛しく思えてくる。不幸って酒で解決するのね、と空に向かって呟いたら、私のあからさまに破顔しきった面を見た落合に鼻で笑われた。
「中野って、最初から全然不幸じゃないだろ」
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