中野麻衣・11

 私の返答を聞いて、明日雪でも降るんじゃねーの、と落合はつまらなさそうに言う。喫煙所の居心地は良くて、熱帯夜が続く今も不思議と涼しく、住み心地の悪い羊山荘内の小さなオアシスと言ってもいいくらいだ。

 赤川が廃ビルの屋上で見つかったこと、そこで泣いていたこと、ふたりで飛び降りたこと、落合に言おうと思ったけれど、うまく話せる自信がなかったのでやめた。落合も、赤川にも余計なお世話だと思われてしまいそうだ。

 そのかわり。私は左手の人差し指を空に向け、さっきと似たような台詞をなぞる。


 「あの辺のビルのてっぺんからなら、綺麗に見えるのよ、月が」

 「……あっそ」


 落合の関心は限りなく低い。思っていた通りの反応を返され、私は少し面白くなって話を続ける。


 「さっき、掴めそうだった。でもやっぱ、そんなつもりがしただけだった。届かなくて悔しかったけど、地球の重力に戻されて、安心もした」

 「はぁ、何の話だよ」

 「あんたが二○五で酔っ払ってる間、旅してきたの」


 いよいよ何を言っているか分からない、と言いたげな落合。どうせ泥酔して変なことを喋っていると思われている。でも私の話は全部本当だ。

 落合や赤川が何を抱えているのかは知らないし、下手したら一倉や羊山までが私たちを騙しながら生きているかもしれない。だけど、ここから見える景色が、一年以上過ごしてきた羊山荘が、愛おしいことは変わりない。ギイギイいう階段に愛着も湧いてきたものだ。


 「中野さん、お待たせ、シャワー空いたよ」


 しばらくして、少し遠くから女子アナみたいな澄んだ声が聞こえてくる。振り返るとバスタオルを持った赤川さやかが、すっかり綺麗になっていた。髪だけはまだドライヤーできていないのか水気を孕んで絡まっているが、新しい部屋着に身を包んだ彼女はとてもさっき溝に落ちたようには見えなかった。


 「さすがにもう寝るでしょ、二○五の片付けは私やっとくから部屋戻りな」


 落合と赤川を近づけたくなくて、私が立ち上がって赤川の方に向かい、話しかける。赤川は、「そうさせてもらうわ、でも一瞬だけ二○五寄らせて。一倉くんにお礼言いたいから」と微笑み、おやすみなさいと残してその場を後にした。完全に、いつもの「ちょっとムカつく高飛車女、赤川さやか」に戻っていた。

 さて、私もこの体を早く綺麗にしたい。自室に向かう足取りはいつもより軽く、落合はそんな私を不思議そうに見上げていた。


 途中途中で水流が止まるシャワーを浴びながら、今日のことを思い返す。

 ボディーソープを泡立てて、自分の体に塗りつけると、さすがに擦りむいたところに刺すような痛さを感じ、あの飛び降りたこと、本当にやったんだ、と思い出してしまう。しかも赤川さやかなんかと一緒に。


 「あの様子じゃ落合にもなんかあるっぽいし、一倉も分かんないし、赤川残して死ぬのは心配だし……しょうがない、生きてあげようかな」


 私なんて、羊山荘で一番役に立たないのにね、と自嘲して、体を流していく。ふいに、何か小さく飛び回るものの気配を感じて、虫かと思って身構える。薄暗いシャワールームの中にひょいと入り込んできたのは随分季節外れな蛍で、私のシャンプーの上に止まったから、シャワーのお湯をかけて隙間から追い出した。あれ、ちょっとだけ光ったように見えたけど、気のせいかな。


 「ジャグラーでもなんでも、光るといちばん嬉しいからねえ」


 体を洗い流して、そんな独り言をつぶやく。

 光。古錆びた街灯も、赤川さやかが浴びるようなスポットライトも、蛍も、なんだかそれらは、道筋を照らす希望に見える。私がこれからどう生きるかなんて全く決めてないし、敷かれたレールを辿ることすら不可能だと思っていたけれど、羊山荘で知ったこと、誰だってちょっと狂ってる。みんながちょっと道を外してる。もう可笑しくて笑えてくる。

 生きるなんて、人生なんて、真面目に考えることをずっと先延ばしにしてきたが、こんな人間が赤川を助けられたように、私にもできることがあるかもしれない。

 というか、きっとある。この歪みきった世界には、中野麻衣みたいなどうしようもない人間だって必要なのだ。


 田舎は狭い。東京も狭い。でもまだ、見てない景色が沢山ある。もう少し高いビルの上から見た月や、ジャグラーのプレミアム大当たり演出や、一倉が出るという大学の劇団サークルの公演や、好きなバンドのライブや、挙げ出すときりがない。

 シャワールームともいえない、異国の独房みたいな空間が嫌だったので、シャンプーとリンスを洗い流してすぐに出た。夜風は涼しく、私の濡れた髪とTシャツがはためく。


 「そーいえば、中野ブロードウェイ行きたいんだった!」


 背伸びをして、誰に伝えるでもないけれど、それでもまあまあ大きな声で言う。言葉は夜にこだますることも無く消えていった。

 ブロードウェイ、私の好きな古書店がリニューアルされたそうだし、電車を多少乗り継いででも行きたい。やっぱり私、死んでる場合じゃない。世の中がつまんないんじゃなくて、私が何も見えてないだけだ。


 久しぶりに、お母さんに電話してみようかと思った。なんともない世間話がしたかった。今夏は、死ぬかわりに地元に帰省しようかな。遺書の代わりに夏のスケジュールが埋まっていくことに、少しの満足感を覚える。

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