中野麻衣・10

 「銭湯は……うえ、定休日か。羊山荘のボロシャワーで洗い流すしか無いって感じね」

 「あーもう、気持ち悪……ていうか、こんな泥だらけじゃ銭湯も受付で追い返されるでしょ」

 「そりゃそっか、あー、赤川からシャワー入っていいよ、一倉とか心配してたし、無事だけ報告しておく」


 夜の街路を、赤川とふたりで歩いていく。付着した泥はできるだけ綺麗にしてきたつもりだが、やはりべっとりと全身にまとわり付く感覚が不愉快だ。サンダルの中も綺麗にしたい。

 私も赤川も、膝を擦りむいたり軽く打ちつけたりはしたけれど、五階から落ちたとは思えないくらいピンピンしている。歩を進めるたびに鈍痛が走るが、今までの経験上こんなのは一週間もすれば治る。

 しばらく歩き、羊山荘が見えてきた。私たちはまだ、スマホで流した適当な歌を歌っていた。月に照らされた羊山荘、世田谷の僻地にぽつんと建っているボロアパート。トイレ共用、シャワーは建物から少し離れたところにある。こんなシャワーを浴びるくらいなら、ちょっと歩いたところにある銭湯に行った方がいい。羊山荘内での意見はそれで一致したらしく、落合と一倉が二人揃ってバスタオルと洗面器と、シャンプー、リンスを持って部屋を出る光景を何度も見かけた。赤川は日頃からもっといい風呂に浸かってそうだけれど、今だけは羊山荘の水が途切れ途切れにしか出ないシャワーに頼りたいようだ。


 バスタオルと代えの服を自分の部屋から持ってきた赤川を見送って、ポケットからスマホを取り出す。ホーム画面に並ぶのは相変わらず一倉からの大量のメッセージ。落合は既読無視を決め込んで、会話に参加しようともしない。


 『(なかの まいがスタンプを送信しました)』

 『赤川見つかりました。いろいろあって田んぼに落ちたから今シャワー浴びさせてる』

 『ほんまか!?』

 『ほんまほんま、外傷も無く無事です』

 『よかったぁ、ほんま、久しぶりに肝冷えたわ』


 返事はすぐに返ってくる。落合の分の既読もつく。

 あんな態度の落合もなんだかんだで心配してる……訳ないか。仲良しだと思っていた隣人が、あんな人間性だったことを認めるにはもう少し時間がかかりそうだ。

 女の子のシャワーは長い。私はぐしゃぐしゃの格好のまま、羊山荘の喫煙所に向かい、ちょうど良い場所に腰を下ろした。灰皿代わりのチューハイ缶からセブンスターの匂いがする。

 彼は、こちらに背を向けて座っていた。煙が空に向かって伸びていく。


 「落合」

 「……中野じゃん。赤川は見つかったんだろ? 何の用だよ」


 微妙な間のあと、落合が振り返る。そして、田んぼに落ちてドロドロになった私を見て、堪えきれないといった感じに吹き出した。笑われるのは別に良い、この空気が続くのが嫌なのだ。


 「……さっきはさ、ごめん。落合と赤川のこと、私なんにも知らなかった。いや、別に知りたくもなかった話なんだけどさ……ちょっと、熱くなりすぎちゃった」


 ぽつりぽつりと、夜に向かってこぼす。独り言くらいの声量を落合は拾って、また煙を吐き出した。紫煙はくるくると円を巻いて空へ登っていく。


 「……赤川に助けてって言われたんだろ? 今回の件、悪いのは全部僕。赤川とも今後は距離を置く。もう二度としませぇん、女の子には優しくしまーす」

 「……そうじゃなくて、さぁ……そもそもなんで二人はそういう関係になったの?」

 「成り行きだよ、成り行き。傷を舐め合うのにちょうどよかった、それだけ」


 右手をひらひらと振って、落合は言う。なにかを誤魔化すような素振りが、腑に落ちない。腑に落ちないといえばさっき、赤川を捜索しにいく前羊山に言われた何気ない一言もだ。「中野くん、一倉くん、赤川くんは忙しいんだよ、落合くんと違って」みたいな感じのことを、性格の悪い笑みを浮かべながらほざいていた。私たち四人の学部はバラバラだが、どこも同じくらい忙しい。進級したらゼミもあるし、一限から五限までびっしり詰まった時間割を見てため息をつくことも沢山ある。


 「まあ、羊山にはあんなこと言われてるけど、落合の学部だって単位取るの大変なの知ってるからさ。私ほとんど行ってないし、教科書貸すくらいしかできないけど、被ってる授業あったら言ってよ」

 「……ありがと、中野。あー……あと、赤川にも言っといて欲しい、今までごめんって。あいつ、ああ見えて苦労してんだよ。僕がそこに漬け込んでさ。あいつも悪いけど、僕が悪かった」


 珍しく弱気な声の落合が、そう残して煙草の炎を消して、気まずそうに立ち上がる。サンダルと砂がぶつかりあうジャリ、という音が、彼がもう部屋に戻ってしまうことへの合図にも思える。

 ぼさぼさの髪に、バンドのシャツに、短パン。人のことは言えないけれど、これ以上ないくらい適当な部屋着だ。落合は最後、私の方を見て、「お礼」と称してセブンスターのボックスから煙草を一本抜き取った。珍しいことに黒いライターも貸してくれた。


 「やるよ、セッタ。どうせ切らしてるんだろ」


 落合は言う。喫煙所に座り込んだままの私は、少し考えて、自分の日焼けしていない不健康な指に目を向ける。煙草か、セッタか。なんか気分じゃない、という訳ではない。私が羊山荘の喫煙所で吸った煙草の数は誰にも負けないだろう。しかし、口から出てきたのは、数時間前の自分では考えられない言葉だった。


 「うーん、今日はいらない。私、長生きしたいし」

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