中野麻衣・9
非常階段に通じるドアが開いている。どうやら羊山荘と同じくらいセキュリティの甘いビルらしい。
見渡してもエレベーターは無く、窓ガラスから入り込んでくる街灯と月の明かりだけを頼りに階段を登る。落書きだらけの白い壁が軽く恐怖心を駆り立てる。階数が上がるたび、心臓がばくばくする。
五階。屋上へと通じるドアを発見し、踊り場から急いで駆け上った。半開きになっているそこを開けると、じわりと漂う夏の暑さと、屋外の開放的な空気が一気に入り込んできて、思わず息を吸い込んだ。
あまり広くはない屋上。フェンスも古く、その気になれば飛び越えられそうだ。それでも羊山荘よりはずっと高いところ。月の光が影になってコンクリートの地面に色を塗っている。
「あら、中野さん」
適当な部屋着で、髪も後ろでひとつ結びで、サンダル姿の赤川さやかは、私の予感通りそこに居た。
目があって、ゆっくりと微笑まれる。何してんの、どこ行ってたの、と捲し立てるより先に、細い指を引っ掛けているフェンスから引き剥がそうとして駆け寄る。何やってんのよバカ、と怒鳴る自分の声は、いまだに涙で濡れていた。
赤川はまだ酔っているのか、体はほんのりと熱く足元もおぼつかない様子だった。私が安全な場所に向かって突き飛ばすと、赤川は簡単に崩れ落ち、コンクリートの上に手足を放り出して倒れ込んだ。
「ちょっと夜風に当たってただけなのに」
「もう、みんな心配して探し回ってたんだからね……!」
息も絶え絶えに言いながら赤川を見上げると、泣いていたのか頬に涙が伝った跡が見えた。それだけで真剣な家出であることを察し、身の安全を確保できたことにほっとする。
「このビルからなら月が見えるって、中野さん言ってたでしょう?」
「そうだけど、別にこんなとこ来なくたって……」
「ねえ、中野さんは、本当に死んじゃうの?」
その言葉に、二人は止まった。言いかけてた言葉もどこかに消えていく。
私はこの夏休み中に死ぬ予定だ。遺書だって書いている。死にたあい、と口癖のように言ってきたが、全部本気で言っていたつもりだ。夏なのに、どこか寒い気がする。私って本当に死ぬの? 田舎から出てきて、東京に絶望しただけで? そりゃあ私は要領も悪いし、性格も悪いし、スロットばっかりやってるし、講義にも行かないし、単位も取れないし、就職もたぶんできないし、生きづらいなあとは常々感じているが、赤川にそんな目で見られたら、元々生半可であった決意も揺らぐ。
私の悪いところのひとつ、口だけで実行できないところ。本当は死ぬことすらできないなんて、心のどこかではわかってたんじゃないか。東京世田谷区の羊山荘、退廃的な大学生活、最後は死でフィナーレ、そんなものに勝手に酔ってただけなんじゃないのか。……いいや、そんなつもりはない。バカ真面目に遺書だって書いているのだ。葬式で流して欲しい曲も、埋葬方法も全部書いてある。でも、揺らいでしまう。ここにきて「やっぱりできませんでした」と諦める、思えばそういうことだらけの人生だった。
「……死ぬ、死んでやる、赤川が飛び降りる気も無くすくらい、ぐっちゃぐちゃの死体になってやる」
半ばヤケになっていることは、どこかでは理解している。
地面に倒れていた赤川が顔を上げる。「待って」の静止も聞こえない。軽々とフェンスを飛び越えると、網越しの彼女と目が合った。
想定外だったな、今死ぬなんて。
でも夏休み中には死ぬ予定だったんだもん、ぐだぐだしてても先延ばしにしちゃうだけだから、これでいいんだ。
さよなら人生。さよなら東京。さよなら、名前も思い出せない元彼たち。それじゃあね、と赤川に手を振る。私を後押しするように、ひゅうと風が吹く。
「ひっ……!?」
ふと、揺らめいて見えてしまった遠くの地面が、おそろしさを煽る。今からあそこに飛び降りるんだ。今から死ぬんだ。ああもう、躊躇してる暇なんてないのに。さっさと飛び降りて終わり、それだけのことなのに。
「中野さん!」
気づけばこちらに走ってやってきた赤川が、フェンスから身を乗り出して私の腕を掴んでいた。ほっといてよ、と言い放ちたいところだったが、人の体温に安心してしまう。
「あ、あ……」
「私はあなたになりたいの、死ぬんなら連れて行ってよ」
「またその話? あはは……」
もはや気も抜けてくる。こんな惨めな私になりたいって、なんなのよと思う。もう、何が何だか私にはわからない。月だけが見ている屋上で、思わず変な笑い声が漏れてしまう。
その時だった。本当に突然の事だった。
ガシャ、と嫌な音を立てて、フェンスが歪む。錆びた金属は私たちの体重に耐えられず、屋上の縁ギリギリで足場を崩した。こちら側に吹くぬるい風も相まって、私と赤川は腕を掴みあったまま落下する。視界が、嫌な浮遊感が、赤川の小さな悲鳴が、ぐにゃぐにゃに揺れる。怖い、嫌だ、と叫ぶ余裕もなかった。
これで、私の人生はおしまい。赤川さやかがどうなったかは知らない。「この夏に自殺する」という目標を成し遂げた私は、晴れて天国か地獄かに向かって歩を進めるのでした。
……なんてことはなく、目を開けたらぬかるんだ土壌に体から落ちていた。足腰に鈍痛は走るが、今すぐ病院に行くようなレベルではない。生きていることに、若干の不満と安心感がないまぜになる。
あ、そこの木に運良く引っかかって、助かったんだ。見上げれば私の着ていたシャツの切れ端が、都会に置いておくにしては立派な大木の枝に絡まっている。落ちた所も小さな水田みたいだし、秋田の田舎かよ、とやけに冷静な頭で思う。
「いったぁ……!」
なぜか腕を掴んだままの赤川も、私と同じような感じで落下したらしい。
手足は問題なく動くようで、全身に付着した泥を払っていた。ドブまみれじゃん、と私が言うと、中野さんもでしょ、と返される。
二人とも、悔しいくらいに無事だった。
「死ぬってこんな感じかあ……」
ポツリと夜に向かって呟いてみる。
なんか、スッキリした気さえしてくる。中野麻衣と赤川さやかはここで一度死んだ。これからどうする? なんにも決まってないけど、なんとかなるんじゃないかと思う。生まれ変わりたて、希望しか見えていなくたっていいだろう。
「笑わないでよ、こんなドロドロになって……どうやって帰ろうかしら」
「そんなん誰も見てないしどうでもいいって。あ、私スマホも無事。一倉から鬼ライン来てるけど、どうする? 死んでましたーって送る?」
「そんなおふざけしなくていいわよ、はあ、右脚痛った……」
「じゃあ音楽でも聴こ、歌お、私そんな気分」
ベタベタの指で音楽アプリを起動し、シャッフル再生の項目をタップする。流れ出したのはくるりの『東京』で、ぷは、と笑ってしまいそうになる。
「なにそれ、有名な曲?」
「うん、超有名。知らないとか終わってんね。あとで共有しとくから」
「うん……」
君がいないこと、君とうまく話せないこと。私の下手くそな歌声が、静かな夜に響いていく。泥まみれのまま、赤川はそれを不思議そうに見ていたが、今までのような見下した感じは一切なく、共に飛び降りた仲間として、簡単に言えば友達として、そこにいてくれているような気がした。
「中野さんになりたいって、こういうことだったのかも」
赤川が笑う。意味がわからないけど私も笑う。生まれ変わった私たちは、これからどこにでも行けるし、なんにでもなれる……ってほど人生、上手くは行かないだろうけど、ひとりで死ぬより、ふたりでバカを言い合っている方がまだ楽しい。
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