中野麻衣・7
二○五。勢いのまま入室し、その辺に落ちていた酒缶を思いっきり落合進に向かって投げつけた。中にはまだほんの少し酒が入っていたらしく、ビシャ、と汚い音を立てる。
「……なんだよ、酔ってんの? ていうか赤川も連れてこいよ、あいつ死にかけてただろ……」
「誰のせいだと思ってんのよ」
さすが私、体育三。落合に向かって投げたはずの缶は、窓ガラスに当たってかこんと軽快な音を鳴らした。染みだらけの床に、色のついた液体が広がっていく。そんなのに目を向けている暇はないから、早速本題に移らせてもらう。
「あんた、赤川に酷いことしてるらしいじゃない」
どん、とテーブルに手をついて、壁にもたれかかっている落合を睨みつけた。今日も変わらず流れているお笑いのビデオがうるさい。
落合は少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの気だるそうな顔に戻る。そして、ニヤリと微笑んだ。
「あー、赤川とやってんのはそういう『プレイ』だよ。合意の上。それにあいつ、僕だけじゃないらしいぜ、そういうオトモダチがいっぱい居るんだってさ」
「は、はぁ……?」
全く予想していなかった答えに、思考が停止する。理解が追いつかない。赤川は私に、あれほど必死に訴えてきた。それが嘘だとは到底思えなかった。
赤川のことは嫌い、日傘なんかさしやがって、このエセお嬢様が、とは思うけれど、あんな風に泣きつかれて放っておけるほど腐ってはいない。お人形のようだと思っていた赤川さやかは、私と同じ人間だった。だから、許せなかった。
落合はぺらぺらと続ける。
「そもそも、誘ってきたのは赤川の方だよ。あいつが首絞めてほしい、殴ってほしいって言ってきたんだ」
「違う、赤川はそんなんじゃない、だって私に助けてって、助けてって言ってきたもん……」
なにがプレイだ、ふざけるな。酔ってるのかなんなのか知らないけど、大声で反論していると勝手に涙が溢れ出てくる。落合はそんな私をただ無表情で、可哀想なものを見るかのような目で見ていた。ああもう、なんで私、赤川のためなんかに泣いてるんだろう。……そっか、赤川のこと、落合のこと、羊山荘のこと、知らないのが悔しいんだ。ここで暮らして一年、大学にもあまり馴染めず、いつしか大切な居場所となっていた羊山荘の内情が、こんなにめちゃくちゃになっていたことが嫌なんだ。
沈黙が流れる部屋で、いつもと同じトーンの明るい声を上げたのは、ずっと居心地が悪そうにしていた一倉だった。
「あー、ふたりとも落ち着きや、おっちはそんな怖い顔すんな、マイちゃんはとりあえず鼻水拭け! とにかくこれはさやぴから直接話聞かんとなんにも分からへん、呼んでくるわ、喫煙所か? あ、俺が居ない間に殴り合いとか絶対あかんからな!」
私に向かって安物の箱ティッシュを投げつけて、おもむろに立ち上がる一倉。お母さんみたいだと思う。赤川はそんな話できるような状態じゃないけど、と声をかける前に、バタンとドアが閉じる。鍵なんてかけるわけがない。
部屋には気まずい空気が流れる。お笑いのビデオの音声だけが、空虚に響いていた。
話すことなんかない。私は落合を許せなかったし、落合は面倒そうにチューハイを口に運ぶだけ。普段中身のない会話で笑いあっていたのが嘘のように感じる。落合とケンカは何度もしてきたが、こんなのは初めてだ。
十分が永遠にも感じられるような部屋に、次に訪れたのはなんと羊山だった。アロハシャツを着た予期せぬ来訪者に、私も落合も警戒の姿勢をとる。鍵くらいかけてもらわないとね、とブツブツ零しながら、振り返って下駄を脱ぐ。そして、羊山荘の管理人の息子は私たちに向かってニヤリと笑う。
「どうやら、大変なことになったみたいだねえ」
中野のせいっすよ、と吐き捨てる落合。あんたのせいでしょ、と言いたくなるのを抑える私。
羊山はどかんと畳に座り、テレビのリモコンを手に取ってチャンネルを勝手に変え始める。別にどの番組が流れようとどうでもいい。
非常に納得できないが、こんな時頼れるのは羊山しかいない。今回の事のあらましはだいたい理解しているようで、羊山は落合に目を向けた。
「赤川くんをあまり虐めないようにね。今回なんて中野くんや一倉くんまで巻き込んで、さ。三人とも、キミと違って学業が忙しいんだから」
ひらひらと手を振りながら、羊山は言う。引っ掛かりを感じる。
……認めたくはないけれど、絶対にそんなことはないはずだ。落合は私よりちゃんと大学に行っているし、単位だって取れている。私のことバカにしてるんすか、と羊山に悪態をつく前に、テーブルを挟んで座っている落合が明らかに動揺していることに気がつく。
「忙しいのはみんな一緒だろ、僕だって……」
いつもの落合なら、こんなの軽く受け流すだろう。
やっぱり酔ってる? 赤川とのことをバラされて動転している? 持ちうる限りの洞察力を駆使してもピンと来ない。まるで落合だけを仲間はずれにしているような羊山の台詞が、どうも胸の奥に引っかかる。
そんなモヤモヤをすっ飛ばすように、勢いよく扉が開いた。今にも壊れそうな音を立てて乗り込んできたのは、赤川を呼びに行っていた一倉だった。ぜえぜえと息を整えながら、なんとか言葉を紡ぐ。さっきまで真っ赤な顔で酔っ払っていたとは思えないほどに顔面蒼白で、緊急事態であることはすぐに察知できた。
「……ヤバい、どこ探してもおらへん、さやぴが、居なくなった」
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