赤川さやか・4
「あれ? 赤川が潰れるなんて珍し。なあんか落合もギスギスしちゃってさ、この世の終わりかっつーの!」
耳が痛い。騒音と言っていいほどうるさい。機嫌がいいのか、階段をスキップで降りてきた中野麻衣が、私の隣で喚いている。落合進と入れ違うようにやってきた彼女は、煙草を取り出して、あ、今、セブンスターの香りは嫌……
「……っう、うええっ……」
「あーはは、完全に出来上がってやんの、なにしてんの?」
もう一度胃液を草むらに向かって吐き散らす。中野さんが笑いながら私の背中をバシバシと叩く。火を見るより明らかな酔っぱらいの挙動である。顔は見たくなかった。羨ましいから、嫉妬でまた吐きそうになるから。
「……ごめんなさい、中野さん、ティッシュとかあったら貰えないかしら」
口元を拭きたい。一回部屋に戻りたい。しかし中野さんは、無い、ときっぱり言い切ってみせた。潔いほど女子じゃないみたいだ。
そんなにきれいなのに。中野麻衣は、薄い茶色の髪を夜空にはためかせる。ドライヤーで乾かしただけにしては質の良い髪の毛だ。私がヘアサロンに毎月通って、今の状態を維持しているのも馬鹿らしくなるくらいに。
中野麻衣の顔になりたい、中野麻衣にはなりたくない。堕落していく彼女をアパートで見るのは、性格の悪い話かもしれないが内心楽しい。そして同時に、苛立ちも覚える。素材だけ完璧な、適当に調理された料理のようなちぐはぐな人間。いや、ちぐはぐなのは私の顔も同じなのか、ああ。夜空に向かって伸びていく煙を見ていた。
「私はね、悲しい時は煙を見るの」
冷たい夜に溶けるように、中野麻衣の薄い唇から言葉が落ちていく。ジャリ、と地面をスリッパが擦り付ける音がする。ぞわぞわとした気配を感じながら、視線を彼女に移した。安っぽいTシャツも、短パンも、吐き出す煙も、そしてその表情も、息が苦しくなるほど美しかった。
なんだ、この人って、結局全部恵まれてるんじゃん。堕ちていく様をみて、私も必死に追いつこうとして、頑張っていたつもりだけど、無理じゃん、同じ舞台に立てると思ってしまったのが間違いじゃん。
「……中野さん……」
努力しているならそう言ってくれ。必死に生きてるならその生き様を見せてくれ。なんでこの人はこんなにも、生身の人間といった感じがしないのか。ひらひらと流されているフリをして、実はちゃんとしているのかただの阿呆なのか、そろそろハッキリさせてほしい。一年過ごしたって分からない、彼女の趣味も好きな映画も好きな音楽も。質問するたびに言葉を変えて、冗談のように頬を緩ませて笑う彼女って、私の憧れた顔って、もうどう頑張っても正解には成れないんじゃないか。
途方もない虚しさを感じる。空は高すぎて見たくない。
「……って、これは寺山修司の詩なんだけどね。何見てたんだろうね、煙草の煙かもしれないし、汽車かもしれないじゃん」
「そうなの? わからない、私何もわからないわ」
「私だって知らないよ、でもさ、こうじゃないかなーって空想してる時とか、楽しいし」
中野さんは、私の知らないことを知っている。知らない世界の話をする。それなのに、私は人の顔と地面ばかり見ている。
中野麻衣に対する評価を下げる時、私は「現実を見ていない」と呆れた。しかしこれは、言い換えれば夢想家ということでもある。中野麻衣は煙の上がる空の向こうのことまで考えているかもしれない。両手に抱えている荷物が多過ぎる私と違って、彼女の思想は自由だ。
駐輪場の隣、古びたコンクリート。煙草を吸っていいところ。私と中野さんは、並んでしゃがみ込んでいる。
「ここからだとね、あのマンションのせいで見えないのよ、月が」
彼女の、白くて細い指が空中を彷徨う。そして、私の方を見て、にやりと笑う。落合進の気持ち悪い微笑みとは全く違う、夏休みの計画を友達に話す子供みたいな笑顔だった。
「でも、あそこのテッペン、そうね、屋上なら見える。空だって飛べるんじゃないかな」
ぐしゃり。吸い終わった煙草をスリッパで踏み潰す音。ふわり、ぬるい夜風。頭の奥で、カンカンと踏切の音が鳴っているような気がした。目の前の美しい少女だったなにかは、瞳をぎらつかせる。
「と、飛べないでしょう、酔いすぎよ、中野さん」
「あんたの日傘でもあればフワフワーって飛べるんじゃない? そのために持ち歩いてるんでしょ、意味ないもん、雨降ってないのに傘って」
「そういう訳じゃないのよ、落ちたら死んでしまうわ、あんな高いところ……」
中野麻衣が、死ぬ。
それは私にとって嬉しいことなのか、悔やむことなのか一拍悩んでしまう。急性アル中以外、今の彼女の具体的な死因は思い浮かばないが、中野麻衣の居なくなった世界は、多分色褪せている。
私はそれを言葉にしようとしたけど、彼女のようにうまくは出来なかった。頭の良さで負けているとは思わない。でも、今まで罵倒された記憶が蘇ってくる。落合進に体を踏まれて、「AV女優のくせに」と言われ、蔑まれた私は、中野さんみたいに綺麗な言葉を選べない。
「……はは、居なくならないでよね、中野さん。羊山荘に女ひとりは、寂しいわ」
出たのは、そんな気の抜けた呟きだった。
どうにかして繋ぎ止めないと、この女の子は消えてしまう。いや、もう一年前から少しずつ消え始めているのだ。私に自己紹介をした、初めて会ったあの日から、ずっと感じていた。この気持ちを表す単語は知らないけれど、中野麻衣が居なくなることは、赤川さやかの世界にとって大きな損失だ。
そして中野麻衣は、ふたたび私に笑いかける。次の挙動を待つ沈黙が、夏なのに冷たい。彼女は私に近付いて、秘密を共有するように、耳元で小さな声で囁く。夜風も一緒にさらさらと頬を撫でた。
「私、死のうとしてるんだよね」
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