赤川さやか・3

 セブンスターの匂いが嫌いだ、中野麻衣を汚したから。ボロボロになった羊山荘の柵からちらと下を覗くと、嫌いな男が煙草を吸っているのが見えた。この人もセブンスターだった。吐き気がぐるりと込み上げてくる。

 会いたくはなかったが、吐くためには共用のトイレまで行かなくてはいけない。煙を吸い込んで、けほけほとわざとむせて見せると、彼は振り返って、私の存在を認めた瞬間にニヤリと笑った。


 「さやかじゃん、今日は二◯五に居たんだ」

 「……別にいいでしょ? 住んでるんだから」


 なるべく音を立てないように階段を降りて、彼が座り込んでいる、羊山荘の喫煙所とされている駐輪スペースの横へ行く。

 落合進は、嫌いだ。私の人に見せたくないところ、嫌なところを知っていて、それをどこまでも利用してくる。モザイクもあるし身バレなんて絶対ないよ、と太鼓判を押されて出たビデオの中で裸になって喘ぐ私を、この男は見つけてしまった。その夜もこんな風に二◯五から抜けて、二人で煙草を吸っていたら、「これ、赤川さんでしょ」と私が写るスマホの画面を見せられたんだっけ。

 それから、私たちの隣人以外の関係が始まった。週に一度、隣駅の近くの小さなラブホテルで。落合くんは、私になんでもかんでも要求してきた。私は仕方がないから応えた。そしてある時彼の方から、「実は僕も隠してることがあって」と、珍しく落ち込んだ様子で、私にぽつりぽつりと話しかけてきた。乱れたシーツの上で煙草を吸いながら、窓のない部屋の一角を見つめている落合くんは、なんだかとても寂しそうに見えたし、実際寂しい人だった。愛情や友情も、周りから認められることにも、悲しいほど飢えている。かわいそうな人、と思っている、今も。


 「……っ、待ってよ、外は嫌だって言ってるでしょ、誰に見られるか、ねえ、中野さんとか、降りてくるかも──」

 「うるさい、全世界に裸晒してるくせに、今更何気にしてんだよ」


 急に視界がぼやける。あれ、ここはどこだっけ。ああ、お腹を殴られたのか、吐きそうだったの、バレてたのか……。

 汚い地面にしゃがみ込んで、吐き出す、思いっきり吐く。ビシャビシャと汚い音を立てて、吐瀉物は飛び散っていく。いつもは胃液しか出ないのに、さっきまで二◯五で、みんなで楽しく夕飯を食べたせいで、固形物が喉に引っかかってまた口を塞ぐ。

 古い電気の漏れるフリールームから、中野さんたちの声が聞こえてくる。いつにも増して楽しそうだ。

 落合進は、ついに座り込んだ私を満足そうに見下ろしていた。いつもはヒールを履いている私の方が身長が高いからか、女を見下ろすという行為に優越感でも感じているようだった。彼は私をよく殴る。きっと、ストレス発散のやり方がよくわからないまま大人になってしまったんだと思う。


 「はは、きったねえの、さやか」

 「……バカ、来週撮影なのに。跡残ったらどうしてくれるのよ」

 「どうでもいい、興味もないし」


 落合進は、また気持ちよさそうに笑いかけて、背を向けて私から離れていく。羊山荘の古い階段がきいきい軋む音まで、聞きたくないのに聞こえてくる。そもそも彼は、本来ならここに居てはいけない……は言い過ぎだが、私たちとは違うのに、当たり前のような顔をして二◯五に戻っていった。騙している、嘘をついているという罪悪感はあるくせに、それを私にだけぶつけてくる。

 本当に、本当に嫌いだ。深夜の住宅街、駐輪場の裏。口の中もベタベタになった服も気持ち悪い。かわいそうな人。かわいそうな人が零した弱音に、寄り添えもせず、なんなら復讐に使える最適なカードが見つかったと心の中で嘲笑ってしまった私も、嫌な人間。

 月だけが私を見ている。夜が、深くなっていく。

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