赤川さやか・2

 「私、秋田から来たの! 中野麻衣っていうの、よろしくね」


 当時の彼女は、今のように不幸そうでもなく、これから始まる新生活が楽しみでたまらない、という感じの目をしていた。

 ボロアパート羊山荘。私の収入を考えれば、今すぐ引き払って出ていっていいくらいの最悪な物件だ。トイレは共同、風呂なし、狭い、壁は薄い、虫は出る。引くくらい出る。

 親の猛反対を押し切って上京してきたと中野麻衣は話した。ウチの親過保護でね、と言って、やれやれといったポーズをしてみせる。私の親は基本的に私に無関心で、東京に行くなら勝手にどうぞ、費用は払わないから自分で何とかしなさい、と言われて、やんわりと追い出そうとしていることだけは理解して、従うように上京してきたけれど、この羊山荘で、中野麻衣に出会ってから、全てが変わった。

 秋田美人? そんなもんじゃない。親が過保護になって地元から出したくない気持ちもよくわかる。整形を重ねたアイドルや女優のような不自然さが一切ない、天然の、着飾らない美しさ。

 芽生えたのは恋や友愛ではなく、愛おしいくらいに巻き起こる嫉妬だった。


 「よろしくね、中野さん」


 だけれど、挨拶したその日が、中野麻衣のピークだった。

 四月は毎日のようにどちらかの部屋へ行き来し、慣れない大学の授業システムに混乱しながら時間割を作成し、サークルの見学にも一緒に行った。中野に連れられて、特に興味もないバンド系のサークルを見に行った時、話しかけてきた男の先輩は、品定めするように中野と私を見比べていた。

 そしてゴールデンウィークが明けると、煙草の煙が三部屋隣から飛んでくるようになった。中野麻衣は、順調に堕落していた。一緒に取った授業にも行かず、彼氏なのかそうじゃないのか分からない男を取っ替え引っ替えして、そいつらに一々感情を持っていかれているのか、部屋で酒を飲んで泣く。夏になる頃には出会ったばかりの初々しい姿はどこにもなく、根本が染まっていない茶髪を括って、古着をかぶるように着て、吐瀉物を平気でゴミ箱に捨てるようになった。

 私、中野麻衣っていうの、よろしくね。秋田から来たの。

 毎日毎日、あの日の彼女の夢を見る。今はもう見る影もない、純真たる少女そのものの顔つきや、髪型や、姿勢や、服も、全部。中野麻衣になりたい。成り代わってしまいたい。私が中野麻衣として生きたい。そう思いながら過ごし、初めての整形をした。彼女のような、ぱっちりとした二重になった。

 中野麻衣の写真を見せると、医師はたくさんの線を引いていく。彼女との違いを、こうやって見せつけられる。もっと弄らなくてはいけない。鼻も口も輪郭も、心以外の全てを乗っ取りたい。

 大金がすぐに必要だった。偶然、その時期中野麻衣の部屋に上がり込んでいた金髪の男と羊山荘の前でばったり会って、オレこういう仕事してんだけど興味ない? と紹介されたのがグラビアや水着の撮影会で、そこからは皮肉にも「彼女のように」、すぐに転げ落ちていった。

 金が欲しくて、足りなかった。アダルトビデオに出る理由なんてそんなものだ。インタビューを適当にぼやかしつつ答えていると、どうしようもない虚しさに胸が痛くなって、吐き気が込み上げてきて、食事を吐くようになった。どうやら拒食症になってしまったらしい。痩せ細った自分の体を鏡で見た時、不自然なバランスにぞっとする。そして釣り合わせるためにまた、整形をする。いつしか私は目標としていた中野麻衣を大幅に追い越して、大学のミスコンに出るよう学部の友達に本気で推薦されたり、見知らぬ異性から一目惚れされたりもした。私は「綺麗な女の子」として、存在することができていた。

 中野麻衣は、今日もよくわからないスロットを打って、勝ったのか負けたのかよくわからない金額で買ったと思われるスーパーの刺身と、余りメダルの景品のお菓子を食べている。

 私を出会い頭からここまで奮い立たせて、汚い仕事をして、整形までさせといて、なんでそうしていられるんだ、と苛立ちすら覚える。私が中野麻衣だったら、あんなことしなくても、好きな服を着て好きなメイクをして、幸せに生きるのに。私が赤川さやかだから、こんなにも不幸なんだ。

 フリールーム、二◯五。テレビの音と、空き缶が床に転げ落ちる音と、蝉の鳴き声が響く夜。ふんわり香る安い菓子の匂いに釣られて吐きそうになって、立ち上がる。

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