一倉洋輔・5

 「一倉くん、今日は講義があると言っていたね、こんなところにいていいのかい?」


 圧巻とは、このことを言うのかもしれない。

 下着が見えそうな格好で階段に座っているマイちゃん、吸い殻をポイ捨てするおっち、日傘を持って微笑むさやぴ、色々ツッコミどころはあるだろうに、羊山は最初に俺に目をやって、はは、と笑った。確かに大学には向かわなければいけなかった。羊山に履修と時間割を確認してもらったことはないので、なんで知ってるんだと一瞬たじろぐけれど、「変」の擬人化である大家の息子なら住民のスケジュールを把握しているのもあり得ない話でもないし、俺もマイちゃんやさやぴの時間割をやんわりではあるが推測できるようになってきた。マイちゃんが「これだけは興味あるから絶対行く」と言っていた犯罪心理学の授業が木曜の四限にあることも知っている。

 おっちだけはあまり履修関連に深入りされたくないように感じる。たぶん自分だけが知っている楽単を教えたくないんだろう、取っている授業の話や、癖の強い教授の冗談を言ってもはぐらかされることが多い。いや、今は、そんなことよりも。


「はは、せやなあ、はよ行かんと」


 夏の暑さが、汗になって首筋を伝う。羊山は俺だけを見ていた。

 本当は、キミは大学になんか行きたくないんだろう。世間体がどうとか、そんな言い訳はするけれど、夢を諦めきれていないんだろう。羊山幸一には全てがお見通しだ。その場から逃げてしまいたくなるような脚の震えを誤魔化して、教材を取りに部屋に行った。

 二階の軋む床とフェンス越しに、マイちゃんたちを見下ろす。夏なのに寒い気がする。彼女らに、羊山に、夢を否定されるのが怖かった。だから今日もモラトリアムの中にいる。同じ目標を持った、同年代のライバルたちはとっくに舞台やらオーディションやら、戦いの場で四苦八苦しながら生きているのに。

 そんなに好きなら芸人になればいいじゃない、天職よ。俺にコンドームを投げつけて、涙目で部屋を出ていったマイちゃん。友達のはずなのに、いつまでも見えない壁があるように思えてならないおっち。ただ微笑んだまま、日傘をくるくる回して微笑む、本心が何にも見えないさやぴ。

 ガチャ、と立て付けの悪いドアを閉める。俺、いつまでここにいるんだろう。さっき吸った煙草はまずかった、だからかわりにため息を吐き出した。このまま何も踏み出せなくて、ぬるい日々を、ぬるい連中と送っていくんだろうか。そんなの絶対嫌なのに、甘えてる場合じゃないのに。冷蔵庫から冷えた水をコップに注いで飲んで、床に座った。ふう、とため息をついて、意味もなくガタのきている天井を見つめる。あの日見たステージに立ちたい、その想いはいつだって変わらない。でも。


 「やあ、一倉くん」

 「う、うわ、びっくりしたあ! なんなんすか、人の部屋勝手に入ってきて」

 「ボクの管理してるアパートだからな、合鍵はあるし、一倉くんは鍵をかけていなかった」

 「……そ、そんなん、支度したらすぐ出るつもりやったから、ちょっとくらいええかなって。てかなんでおるんですか、こわ……」

 「キミのポストにこんなものが届いてたよ。ほかの住民にバレたら面倒そうだから持ってきておいた、感謝するんだね」


 ドアの向こう、差し込む朝日、ニコニコ笑う不気味な羊山、右手には少し分厚い封筒。一発でその内容を察して、背筋が凍った。

 少し前、その日はマイちゃんもおっちも居なくて一人で飲んでいて、お笑いのテレビを見ていて、わけもなくステージ上の彼らへの賛美と嫉妬で泣きそうになって。酔っ払った勢いで、お笑い事務所の養成所のパンフレットを取り寄せてしまったのだ。よりにもよって、羊山に見つかった。


 「やっとわかったよ。キミが本当にやりたいことは大学の演劇サークルなんかじゃない、なんなら学校なんて今すぐやめて、養成所で芸事の勉強をしたいと思っている」

 「……あはは、お見通しやないですか。そうです、大学と違って、こういうとこって年齢制限あるから、行動すんなら早い方がええなって。あんたにだけ言いますけど、俺、大学なんて辞めた……」

 「一倉くん」

 「……はえ、なんですか」


 羊山の目が光る。玄関先で夕陽を浴びて立っている彼は、もはや廃墟に取り憑いている霊のようで少し怖かったけれど、その後の台詞の方が気になる。

 羊山は、俺がお笑い養成所のパンフレットを取り寄せたことについては何も気にしていないように見えた。ただ、少しだけ困ったように首を傾げて、ううん、と唸ったり、腕を組み直したりする。そろそろイライラしてきた時、羊山は諭すように静かな口調で、俺にこう言った。


 「キミ、落合くんにだけはその秘密、バレたらいけないよ」

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