一倉洋輔・2

 ビデオに夢中になりすぎて、あんたって人間はさぁ、とマイちゃんが捲し立てて、馬乗りみたいな体制になっているのにも気付かなかった。既に五回も六回も見た映像が、目の前の女の子よりも面白くて、惹かれてしょうがなかった。

 マイちゃんとDVDを見る約束をした夜。フリールームの二〇五号室には常に酒やツマミが置かれているが、せっかくの鑑賞会なので近くのスーパーに行って冷えた酒を買ってきた。一応五限には行ったマイちゃんが、おつかれえ、と言って二〇五のドアを開ける。座って待っていた俺もおつかれえ、と真似して返す。マイちゃんはちょっと笑って、私と同じ酒買ってきてんじゃん、とテーブルに安ビールをコトンと置いた。

 今日は二〇二のおっちがサークルの友達の家に泊まり、二〇四のさやぴもバイト先の飲み会があるらしい。羊山という大家の息子は、もう二週間くらい見ていないので海外旅行にでも行ったのではないかと思う。住民の誰に聞いても、あの怪異みたいな男の情報は得られなかった。

 マイちゃんが来て、テレビに電源を入れる。酒を開けて乾杯をする。前説とかいらない、ネタだけ見たいと彼女が言うので、十五分くらい飛ばした。俺はこういうの全部見るけどな、と既に少しだけ酔ってきた頭で考える。マイちゃんはきゃっきゃと笑っている。

 いいなあと思った。普段つまらなさそうな顔ばかりで、朝になるとゴミを出しに来て、そんな生活を繰り返して、常に不幸を嘆いているマイちゃんを、こんなにも笑顔にするものって、凄い。マイちゃんだけじゃない、同じものを見ておっちもさやぴもタガが外れたように笑っていた。なんでこのコンビ売れないんだろう、俺なんかには分からないような絶妙な間とか、バランスとか、ピースがしっかりとハマるように計算されて作られているはずなのに、それでも足りないのは、どうしてなんだろう。気がついたら単純にパフォーマンスを観劇することを忘れて、点数を付けるような目で見てしまっていた。本来の楽しみ方が出来なくなった自分を軽く嫌悪する反面、発声の拙さやテンポのズレなど、改善出来る粗が自分でもわかるようになっていて、それらを必死にルーズリーフに書きなぐって居るうちに、マイちゃんが怒っていた。


 「……っ、あんただって、わかってるくせに……!」

 「ごめん、て!ほんまにごめん、ビデオに夢中なってて気づかんかった、悪いことしたなら謝るから」


 怒りからか宙に浮かんでいた拳が、何かを察したのかふわっと脱力して落ちていった。マイちゃんは俺の膝に跨ったまま、はあ、と大きなため息をついた。俺は何にもわかんなかった。

 羊山荘の面々くらい深い付き合いをしていると、自分の出身地の話になることもある。本当は新潟生まれ新潟育ちで、とみんなに打ち明けたら、マイちゃんは「なんかあんたの関西弁ってエセだと思ってた」と、おっちは「普通に新潟語で話せばいいのに」と言ってきた。普通にってなんだよ、おっちの言う普通がわからん、とかその時は思っていたけれど、こんな状況になって、不意に新潟語というか、標準語が出そうになって、慌ててマイちゃんを引き剥がそうとする。

 平均体重より遥かに軽いであろう体を持ち上げて、誰かが持ち込んだタオルケットの上に座らせる。気まずい沈黙の中に空気の読めない歓声と笑い声が流れ出す。約束したDVD、古いテーブルとルーズリーフ、鉛筆、八十五、素人が良い気になって付けた点数。これが正しいわけが無い。


 「……マイちゃん」


 ぺち、と胸あたりに飴玉くらいのものをぶつけられ、粘着性も無く床にコロンと落ちていく。ジャグラーの景品やろか、と思ってなにげなく下を見て、驚いてしまって何にも言えなくなった。避妊具だった。鮮やかで毒々しさすら感じる色のそれは、色褪せたものしかない二〇五にはとても不似合いだった。


 「そんなことしたかったん?」

 「……男と女で、ふたりっきりって言うから、私……」


 でも、俺たち付き合ってもないし、これから付き合うって感じでもなかったし。もし付き合ったとしてもすぐそういうことするんじゃなくて、大切にしたいし。ていうか、今日はDVDを見る約束だったし、なんにもないのは朝に確認済みやし、ここはプライバシーのプの字もない羊山荘やし……

 色々言いたいことはある。マイちゃんの、貞操観念がかなり緩いことも知っている。でも、俺はそういうの抜きで、DVDを一緒に見て、それが終わったら感想を話しながら酒を飲んで、どっちかが眠るまでいつものように騒ぐものだと思っていた。今日はおっちもさやぴも、羊山も居ないから、ふたりっきり。そんなの抜け駆けみたいで好きじゃない。それに。


 「目の前の女より、その録画のDVDの方が魅力的ってことでしょ、わかってたけど、あんたってバカ……」


 ずり落ちたブラジャーの紐を直しながら、マイちゃんは薄っぺらい服の裾をはためかせる。ここで、ようやく扇風機をつけたことに気がついた。白いシャツが、ぬるい風にパタパタと揺れている。


 「……こればっかりは、譲られへんねん」

 「じゃあ、ほんとに芸人にでもなればいいんじゃないの? 天職じゃない、そうやって点数つけるくらい真面目に見てんだから。そう、天職よ、ほんと、バカなんだから……!」


 アスカ・ラングレーかよ、なんてセリフを一通り吐き散らして、気分も良くなったのか、その辺の酒を掴んでぐいっと喉に流し込み。マイちゃんは荷物を全部持って、「帰る」と言い出した。帰ると言っても戻る先は四つだけ隣の部屋。俺たちは明日も明後日も隣人なのだ。同じマンション内でケンカなんかしてると、おっちもさやぴも暮らし辛いだろう。そう思ってマイちゃんを止めようとしたけれど、できなかった。

 どうしようもなく、指が震えて止まらない。

 本当にやりたいことを天職だなんて言われたのは、人生で初めてだったので、嬉しさの方が勝っていた。八十五点。相も変わらず部屋に流れる黄色い歓声、大きな漫才師の声、バタンとドアが閉じる音。マイちゃんの呂律は一応回っていたし、廊下で野垂れ死ぬようなことはないだろう。二分後にはまた鉛筆を握っていた。書き留めておかなければならないことが、沢山あった。

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