一倉洋輔・1
圧巻とはこの事を言う。
小学四年生の頃、家族総出で大阪旅行に行ったはいいが、手続きの不備で遊園地のチケットが取れなかった。メリーゴーランドに乗りたかったのにと泣く妹、責める母、困り果てる父、楽しいはずの旅行は一転して通夜のような空気になっていた。
父は他に家族が楽しめる施設を、観光マップを広げてそれはそれは真剣に探し、見つけたのは大きな劇場でやっているお笑いのライブだった。当時は今ほど芸人主体の番組も多くなく、たまに一発屋が流行って消えるくらいだった。大御所たちの漫才は難しくてわからないし、俺も妹も母も、なんなら父も、興味があるかないかでいったら、なかっただろう。
チケットを貰って席に座る。妹はまだ泣いていた。俺もビッグサンダーマウンテンに乗りたかったな、と心で文句をこぼしていた。
しかし、幕が開けて、ライトが光って、軽快な音楽が流れ出した瞬間。勢いよく舞台に登場してきた芸人は、テレビで見るものとは全然違った。まずはツカミのご挨拶、ここでもう爆笑が起こる。展開される話にどんどん引き込まれていき、気がつけば腹を抱えて笑っていた。それは父も母も妹も同じで、さっきまで遊園地の件で険悪になっていたのが嘘のようにバカ笑いをして拍手を送る。周りもみんな、笑っている。一体感で会場は揺れているような気すら感じた。その公演はなんの誇張もなしに人生で一番笑った。
なんてかっこいい世界なんだろう。金ピカの幕にサンパチマイク、派手な衣装、巧みな話術に完璧なオチ。会場のみんなが声を合わせて笑い、拍手を送る時、舞台上の漫才師も嬉しそうだった。
大学生になった今でもまだ夢に見る。前までは自分は席に座っていて、お気に入りの芸人が出てきたら拍手で迎えて観劇するという感じだったが、最近は俺が、顔も知らない誰かと一緒に舞台に立っている。観客の歓声とスポットライトをめいっぱいに浴びて、夢見た景色に体の底まで熱くなるのを感じる。足を一歩踏み出し、小学生の頃抜群にウケたギャグを披露しようとして、次に聞こえたのはけたたましい目覚ましの音。もうちょい夢くらい見させろや、とイラつきながら時計を止める。未だに心臓はばくばくいっている。
羊山荘。ここが今の俺の住居だ。狭いし風呂もないし、トイレも共同だが、芸人の下積み時代のエピソードに出てくるような風情ある感じは嫌いじゃない。布団から体を起こし、日課であるゴミ捨て場の掃除にでも行くかなと、パサパサになった歯ブラシと切れかけている歯磨き粉を握った。
東京には劇場もライブもたくさんある。常に一歩先の流行を追い続けたい。今日の予定はまばらに講義が入っているだけで、空いた時間を使って劇場に行ける。当日券はあるだろうか、と頭を回転させた。
「一倉、遅いんじゃないの? はい、ゴミ」
夏めいた青空の下、それに不似合いなスウェット姿の寝ぼけた女がゴミ捨て場に立っている。すぐさま不機嫌を察し、階段の音をからからと鳴らして降りて、緑のビニール袋をふてくされた表情で持っている中野麻衣に笑いかけた。
「ごめんごめん、ちょっと寝坊してもうてな。その辺に適当に置いといてくれや」
「そっけないなあ、私あんたに毎日挨拶するのちょっと日課にしてたのに」
マイちゃんは嘘なのか本当なのかわからない事を言ってゴミ袋を差し出した。そして、機嫌も直ったのか小さく微笑む。少しだけ胸が高鳴る。
人が笑っているところが好きだ。偽善でもなんでもなく、人間は笑顔でいる時が一番輝いていると思う。大阪旅行の帰り道、家族みんながそれまでの喧嘩など嘘のように、楽しかったねと言い合った。まるで、魔法のように思えた。舞台の上でおちょけて、笑いをかっさらっていく漫才師は、スーパーヒーローよりも、メジャーリーガーよりも輝いていた。
「そういやマイちゃんてさ、この前二〇五で流してたお笑い番組でアホみたいにわろてたやないか。好きなん、ああいうの」
「ん? あー、好き、キングガンとかめっちゃ好き」
ゴミ袋をどさどさと汚い床に置きながら、何気なくマイちゃんは言う。その口から出たお笑いコンビは、どう考えても東京のキラキラした女子大生が好むような芸風でも見た目でもない。流行りの芸人に熱をあげるミーハーな奴らと、マイちゃんはやっぱりどこか違う。
「キングガン、単独ライブのDVD持っとるで。貸したろか」
「別に、そこまでの思い入れはないよ」
夏は朝から蒸し暑い。それに比べてマイちゃんの言葉は冷たい。一瞬でも同志かと期待してしまったのがそもそもの間違いだった。テレビに出ているのを見てなんとなく好きになった、と、ライブに通いつめて賞レースの結果を固唾を飲んで見守って、ファンレターまで送るほどの好きは、全くの別物だ。しかもマイちゃんの部屋にはテレビがないので、DVDがあったところで再生できない。
「もったいないなあ、おもろいのに」
「じゃあ今日夜二〇五で見ようよ、今日は落合も赤川も誰かん家に泊まりでしょ」
まあ、ええけど。男女二人っきりやで、怖くないん、と困惑しながら言うと、別に、一倉だし、と返される。DVDが目的なので襲うなどといった物騒なことは全く考えていないけれど、少しこの中野麻衣という女が心配になる。
「でもさあ、ほんと好きだよね、いっつも二〇五でお笑い流してんじゃん。一倉もなればいいのに、芸人」
出したいゴミを全て片付けたのか、崩れそうな階段の途中で立ち止まってしゃがみ込み、手摺越しにマイちゃんが茶化すように話しかけてくる。夏の早朝の風が、柵の間をするりと抜ける。
「厳しい世界やで、俺には無理や」
「無理、なんて言わないでさあ。人生って一回しかないんだよ、やりたいことはやってみなきゃ」
たぶんマイちゃんは、先のことも、下手したら今のことも考えていない。その浅はかさに心が楽になることもあれば、どうしようもなく腹が立つこともある。やってやりたい気持ちはもちろんあるし、やるべきだと思う。一生表舞台の人間たちに嫉妬して生きるよりは、ボロボロでもステージに這って、戦った上で負けたい。しかし、成功する確率の低さや世間からの風当たり、人生を棒に振る覚悟、それらを天秤にかけると、今の平穏な暮らしに甘えてしまうのも事実だった。
あの旅行からの帰り道、妹は家族と手を繋いで、面白かったねと笑っていた。父も母も嬉しそうだった。それからしばらくの間、劇場で見た芸人を真似て遊ぶこともあった。
こんなかっこいい仕事、他にあるだろうか。中学一年生くらいの夏。俺もこのステージに立って、誰かを救いたいという夢を持つまでに時間はかからなかった。
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